慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

今度の「満月写経会」は曇り空??&慈雲寺へのアクセス

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 明日(16日)は満月です。でも、どうやら曇り空になりそう。流れる雲の間からお月様輝くのもなかなか風情があるものです。満月が少しでも顔を出してくれると良いのですが・・・

 さて、これから毎月、満月の夜に写経の会をしたいと思っています。満月の日は毎月変わりますから、「そんな覚えにくい日程設定は不便!」という方もいらっしゃるでしょうが、不便には目をつぶって、満月の風情を楽しんでみましょう!

 写経は、心を落ち着かせて仏様の説かれた真理の言葉を書き写すもので、たくさんの功徳があると言われています。字の上手下手は問題ではありません。心を込めて丁寧に写していくことがたいせつです。

 16日の写経会は、写経に必要なものは全てこちらで揃えますので、お気軽にご参加ください。初心者でも気軽に写経を体験していただきたいので、筆ペンを使いますが、炭をすって、筆で書写なさりたい方は、どうぞご自分の使い慣れたお道具をもっていらしてください。

 写経会は16日夜7時半より行います。

 始めに皆さんで『般若心経』の読経をし、写経の心得や功徳についてのお話しを少しさせていただきます。23日の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」では『般若心経』の基礎知識についてお話ししますので、ぜひご参加ください。10時から始めます。

 来月の満月は11月14日です。次回からは、『般若心経』の内容について、毎回少しずつ学んでいきます。

◎◎公共交通での慈雲寺へのアクセス
 申し訳ありませんが、慈雲寺には十分な駐車場がありません。なるべく公共交通を使っておいでくださいませ。
 名鉄有松駅前から、「有松12番 有松町口無池行き 地蔵池経由」に乗ってください。これらのバスに乗り、郷前(ごうまえ)の停留所でお降りください。そのまま道なりに進むと郷前の交差点に出ます。角に鍼灸院があり、その右手の細い坂道を上がると慈雲寺の屋根が見えてきます。
   また、時間はかかりますが、地下鉄の鳴子北駅から出ている「鳴子13番」のバスも郷前に停まります。。
●栄のバスターミナルからは森の里団地行きのバスが一時間に一本出ています。この場合は、郷前の停留所から道を戻って郷前の交差点に行ってください。日曜は18時50分発があります。所要時間は約40分
●JRの共和駅からタクシーで5分。市バスはありません。「郷前の交差点近くの慈雲寺」とおっしゃってください。慈雲寺を知らないタクシーの運転手もいますので、その場合は郷前の交差点の鍼灸院で降りてください。鍼灸院からお寺の屋根が見えます。

◎今日の写真は、カナダの東端にあるニューファンドランド島で見た野生動物の足跡です。鹿かしら?トナカイでしょうか?

親子なればこその苦しみ

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 前回のブログでお話しした御法主の特別講義で、阿弥陀仏と私たち念仏者との関係について証空上人がどう考えておられるのかというお話しがありました。

 阿弥陀仏と念仏者は「三縁」と呼ばれるとても緊密で温かな関係にあります。その一つが「親縁」と呼ばれています。その内容については、また別の機会に(私の理解がもっと深まってから・・・・すみません)お話しします。

 証空上人は「親縁」を「親子のような親しさ」と表現しています。御法主も、「親の膝の上に抱かれているような近しさ」と説明していらっしゃいました。しかし、私は慈雲寺の住職になってから、この「親子ならではの近しさ」という表現に対して、かなり慎重になっています。

 慈雲寺を訪ねてくださる方の中には、さまざまな悩みを抱えていらっしゃる方がいます。私のようなヘッポコ坊主では、なかなか「答え」や「指針」を出して差し上げることはできません。でも、じっくりとお話しを「聞く耳」はもっています。心のうちを言葉にしている間に、解決策が見えてくることもあるし、落ち着いて違う見方ができるようになる場合も少なくありません。

 そんな皆さんの悩みの中に「親子関係」の問題が感じられることがしばしばあります。「親を愛せない」、「親から愛してもらえなかった」、「子供のうちの一人だけ愛することができない」、「ダメとわかっていても虐待してしまう」などなど、親子の間の葛藤は、双方の傷もとりわけ深いもののように思えます。

 親だから、子供だから、家族だから・・・と、お互いに期待するものも、求めるものも大きいのでしょう。「親なのになぜわかってくれないのか」、「こんなに愛しているのに・・・」

 親子は本当に、愛し合って当たり前、理解しあってあたり前なのでしょうか・・・・?現実には、親子ならでこその葛藤、苦しみがあるように思えます。

 だからこそ、阿弥陀様の全く無条件のお慈悲がありがたいのです。阿弥陀様は私たちの苦しみをそのまま受け止めてくださっています。私たちに足りないものを全て、私たちに代って行ってくださっているのです。

 阿弥陀様の願いに気が付けば、すでに救われている自分がストンと理解できるでしょう。本当の安心(あんじんと読みます)が心に満ちてくれば、親子関係はもちろん、さまざまな人間関係も、穏やかになっていくのです。

 もし、親子のことで苦しみを抱えていらっしゃる方がいらしたら、一度お寺においでになりませんか?阿弥陀様の穏やかな、慈愛に満ちたお顔を拝むだけで、気持ちがやわらいできますよ。もし、私でよければ、いつでもお話しをうかがいます。お寺で話したことは、けしてお寺の外へは出てきません。

◎今日の写真は、カナダの西海岸の先住民が儀式に使うお面です。何だか涙を流しているようですね。

御法主から直接教えを受ける

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 慈雲寺の属する浄土宗西山派西山浄土宗)のトップに立つ方を「御法主」(ごほっす)と申します。総本山光明寺の管長であり、宗門の信仰の中心的指導者です。今年、前御法主が体調不良で退山なさり、新たに哲空上人が御法主になられたのです。

 哲空上人は、教学の学者として知られた方です。私が30年前に初めて西山浄土宗の教えを学んだときの先生がまさに哲空上人でした。

  数年前から、本山で、この哲空上人から数か月に一度、直接教えをいただく機会が設けられました。「広谷放談」と呼ばれるこの会は、誰でも参加できて、気軽な雰囲気で哲空上人が証空上人の教えを解説して下さる会でした。気軽な雰囲気といっても、哲空上人は非常にまじめな方ですから、それほど「気軽」な感じでもないのですが・・・・

 哲空上人が御法主になられてから、初めての「広谷放談」が昨日開催され、私も参加させていただきました。30年前に哲空上人から教えを受けたときのことが思い出されて、懐かしいような、あれからほとんど進歩のない自分が情けないやらで、不思議な気持ちになりました。

 しかし、法然上人から証空上人へと受け継がれたお念仏の教えを、何としても私たちに受け継いでほしいという哲空上人の御法主としての強い意志は、私のぼんくらな頭にもグイグイと入ってきました。

 今回は、証空上人のお書きになった『女院御書』という書物の中から、お念仏がなぜ、私たち凡夫にとって他の修行より優れたものであるのかということを説いた部分の解説でした。私たちの信仰の中心となる問題です。

 打てば響くというわけにはいかない自分の愚かさが哀しいですが、御法主から直接教えを受けたという経験に後押ししていただいて、ほんの少しでも理解を深めたいと思っています。

 久しぶりの本山でしたが、もう山の上の方ではほんのりと色づき始めた楓もあって、その哀れな風情が心に残りました。

◎今日の写真は、カナダのニューファンドランド島で見た野草です。

10月16日の「満月写経会」のお知らせと慈雲寺へのアクセス

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 今月から、満月の夜に写経の会を催すことにしました。慈雲寺では、手ぶらでいらしていただいても、いつでも写経をしていただけるように用意がしてあります。書き終えた写経は、弘法大師さまの前にお供えしていただいています。ある程度の枚数がたまったら、本山に納経させていただこうと思っています。

 「写経の会をやってください」というご希望はだいぶ前からいただいていました。ところが写経というのは、ただお経を筆でなぞるだけではなく、お経を書写することを通じて仏教を学び、心を穏やかにしていくのが理想ですから、私の方の力不足が気になって、なかなか取り組めませんでした。

 しかし、「私の力」などいつまでたっても熟すわけはないので・・・思い切って、皆さんと一緒に学ぶつもりで始めようと思いました。

 毎月の満月の夜に集まって、月の光を愛でながら『般若心経』や「南無阿弥陀仏」お名号を書き写したいと思います。

 第一回は10月16日(日)19時半からです。毎月、満月の日に行います。

 月の光は、しばしば阿弥陀様のお慈悲の光にたとえられます。優しい月光に包まれながら、ゆったりと写経をいたしましょう。

 お手本や写経用紙、筆ペンなどはご用意しますが、ご自分の書きなれた筆などをお持ちくださっても結構です。写経は字の「上手さ」を問うものではありません。一文字一文字、心を込めてお釈迦様のお言葉を受け取る気持ちで書き写していきましょう。

◎公共交通での慈雲寺へのアクセス
 申し訳ありませんが、慈雲寺には十分な駐車場がありません。なるべく公共交通を使っておいでくださいませ。
 名鉄有松駅前から、「有松12番 有松町口無池行き 地蔵池経由」に乗ってください。これらのバスに乗り、郷前(ごうまえ)の停留所でお降りください。そのまま道なりに進むと郷前の交差点に出ます。角に鍼灸院があり、その右手の細い坂道を上がると慈雲寺の屋根が見えてきます。
   また、時間はかかりますが、地下鉄の鳴子北駅から出ている「鳴子13番」のバスも郷前に停まります。。
●栄のバスターミナルからは森の里団地行きのバスが一時間に一本出ています。この場合は、郷前の停留所から道を戻って郷前の交差点に行ってください。日曜は18時50分発があります。所要時間は約40分
●JRの共和駅からタクシーで5分。市バスはありません。「郷前の交差点近くの慈雲寺」とおっしゃってください。慈雲寺を知らないタクシーの運転手もいますので、その場合は郷前の交差点の鍼灸院で降りてください。鍼灸院からお寺の屋根が見えます。

◎今日の写真はカナダのオカナガン地方のワイナリーで見たベンチです。目の前にはきれいなブドウ畑が広がっていました。

恩師を供養する心

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 Mさんは、あるプロスポーツのコーチです。ご自身もそのスポーツで一流と言われた方で、コーチになってからも数多くの選手をプロに育ててきました。そのMさんが先日慈雲寺においでになり「お世話になった師匠の祥月命日が来るので、御供養をお願いします。」とおっしゃいました。

 慈雲寺の先代のころから毎年お参りにいらしているそうです。私がここに赴任してからは、タイミングが悪くて今日までお目にかかることができなかったのです。

 ご家族、ご先祖の御供養だけでなく、人生のさまざまな面での恩師への御供養をお手伝いさせていただくのは、私にとっても意義深いご縁です。今朝はその恩師のために、私が大好きな『一四行偈』と呼ばれるお経を読ませていただきました。このお経はとても短いものですが、阿弥陀様への信仰のエッセンスがギュッと凝縮されていて、読むたびに心が温かくなってきます。

 Mさんの恩師を思う気持ちは、きっとMさんの周囲にも良い功徳を及ぼしていると思います。この思いは、師匠から受けた指導をMさんがご自分の弟子たちに伝えるときにも「温かさ」「誠実さ」となってお弟子さんの心に伝わっていくことでしょう。

 このように、「供養」はご縁のある方への感謝の姿です。恩師、お友達、そして人生の転機に手を差し伸べてくれた恩人たちへの御供養をおすすめします。祥月命日がきっかけとしては一番良いでしょうが、いつでも、その方のことを思ったときに慈雲寺をお訪ねください。

 本堂で静かに阿弥陀様に手を合わせて、その方を思うだけでもけっこうです。もし、読経をご希望でしたら、お声がけください。いつでも、どなたでも心を込めて御供養させていただきます。

◎今日の写真は、カナダのブリティッシュコロンビア州の中央部に広がる乾燥地帯で見た野草です。

「すみません」より「ありがとう」

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 ここ15年ほど、日本とカナダを行き来して仕事をしていたので、慈雲寺に赴任し手に本に戻ってからも、あらためて驚くことなどあまりないと思っていました。しかし、「日本に時々戻ってくる」という状況と、「日本に定住する」という状況では、やはりずいぶん「気が付くこと」や「気になること」が違うのです。もちろん、名古屋という今まで住んだことのない場所に住むことになったというのも大きいと思いますし、落ち着いて周囲の状況に耳をすまし、目を配ることが住職の役割の一つだということにも関係してくるでしょう。

 中でも、一番最初に気が付いたのが、「すみません」と「ありがとう」という二つの言葉です。カナダで暮らしているときは、日々の暮らしで"Thank you!"という言葉をよく使い、よく聞いていました。子供たちの躾にも「ありがとう」の言えるということがとても大事だと考えられています。子供が感謝の言葉を忘れると、「魔法の言葉を忘れていない?」と子供にうながしているのを何度も聞いたことがあります。

 しかし、日本では「すみません」という言葉はしばしば耳にしても、「ありがとうございます」は、案外聞く機会が少ないのです。何かしていただいたときはもちろん、お土産などをいただいたときでさえ、「すみませ~~ん」という人の方が多いように思えます。

 「すみません」というのはどんな意味でしょう?本来ならお土産をいただいり気を使っていただく立場にはないのに・・・申し訳ありません・・・すみません・・・でしょうか?

 なぜ、すなおに「ありがとうございます。とっても嬉しい!」とはならないのでしょう?

 お互いを思いあう気持ちを大切にして、心良く受け入れ、感謝する方がずっとご縁を深めるでしょう。お互いさまの気持ちを素直に受け止められれば、絆は強まるのです。

これはお互いに依存するのとは違います。また、「やってくれるのがあたりまえ」という過剰な期待とも違うのです。

 ぜひ心をこめて「ありがとう」と言ってみましょう。

◎今日の写真はカナダ西部にあるオカナガン湖の写真です。ここにはオゴポゴと呼ばれる古代の怪獣が棲んでいると言われています。

一周忌の準備で夜を過ごす

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 法事の準備は私にとっていつも厳粛なものです。慈雲寺は檀家のないお寺ですので、お葬式や法事を頼まれることはめったにありません。それだけに、葬儀や法事をさせていただくのは深いご縁に導かれてのことと思っています。

 しかし、僧侶として本当に足りないことだらけの私ですから、塔婆を書くのもサラサラとはいきません。僧侶は字が上手(というか、明確で格調のある文字)なことはとても大事!私は字が悲惨なほど下手です。乱暴なわけではありませんが、ボーっとした小学生みたいな字・・・・慈雲寺へきてから、「これをなんとかしたい」と言い続けているのですが。う~ん。

 でも心を込めて戒名を書きながら、明日の法事のときの法話について心の中で改めてまとめ直します。私は法事の時の法話を大切にしています。人は葬儀や法事のときにこそ、生きている意味を考えることができるからです。

 私たちはどこからきて、どこへ行くのかという根源的な問いに向かい合うきっかけです。

 私のようなヘッポコ僧侶に「答え」があるわけではありません。でも、一緒に祈ることはできます。「悲しいときは心から悲しんでよいのです」と語りかけることができます。さみしいときも辛いときも、阿弥陀様はいつも寄り添ってくださっているとお伝えすることはできます。法話を通して、阿弥陀様のあたたかなお慈悲を感じていただければと心を込めてお話しするのです。

 さて、今日は少し早く眠って、体調を整えましょう。

◎今日の写真はカナダのオカナガン地方で見た花です。ヒマワリのようですが・・・