慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

3月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は3月17日(日)10時より、お彼岸の法要も兼ねて行います。テーマは「法然上人が開いた『浄土門』とは何だったのか?その2」です。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

阿弥陀経を現代語訳で読誦してみる

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 「お坊さんがお経を読むのを聴いていても眠くなるだけ」と笑いながらおっしゃる方がいました。確かに、中国語の経典を漢音や呉音の発音で読むのですから、なかなか意味をとるのは難しいでしょう。

 しかし、ほとんどのお経は、とても興味深いストーリーが語られているのです。インドらしい大胆な表現も多いし、そこに説かれている深遠な教えを受け取れなくても、物語を追うだけでも面白いものが多いのです。

 先日、般若心経の研究書を探していて、心経ばかりでなく、阿弥陀経や観音経の現代語訳を集めた本を見つけました。

 もちろん、漢文を現代語に翻訳する場合は、そこに説かれていることの「解釈」が入ってきますので、やたらな翻訳では教えを誤解する危険があります。しかし、お経に説かれているストーリーを把握するだけなら、あまり細かく気にしなくても大丈夫では?と思っています。

 先日から、朝のお勤めの時に、阿弥陀経の現代語訳を少しずつ音読しています。これがとても楽しい。阿弥陀経は極楽の様子がとても美しい表現で描かれていますから、朝から音読すると元気が出てきます。

 阿弥陀経は早い人なら7分ぐらいで読めるお経です。私は15分ぐらいかかりますけど・・・。現代語で読むと、漢音でよむのの4倍ぐらい時間がかかります。

 阿弥陀経が終わったら、観音経も同じように現代語訳で読んでいこうと思っています。

◎今日の写真はカナダのブリティッシュ・コロンビア州で見たバラです。

喪服は亡くなった方への敬意の表現

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 私はカナダの西海岸の町で40年近く過ごしました。カナダは移民の国。世界各地からさまざまな慣習が持ち込まれています。ですから、一概に「カナダでは」という言い方をするのは、一般化しすぎてしまう危険があります。でも、今日はちょっと「カナダでは」のお話しをしましょう。

 カナダで子供の躾や教育にきちんとした方針を持っている家庭では、小さな子供にも「正装用の服」を用意します。そうした服装を「サンデースーツ」と呼びます。それは、日曜に教会のミサや礼拝に着ていくための服です。男の子なら落ち着いた色のジャケットと長ズボン。ネクタイか蝶ネクタイとカッチリしたデザインの靴も揃えます。女の子はスカートとジャケット。スカートはやや長めです。靴はエナメルが多いでしょう。

 教会という、日常生活とは違う「聖なる場」に出掛けるとき特別な服装をするのは、神への敬意を表し、礼拝の雰囲気に溶け込んで居心地よく過ごせる合理的な知恵でもあります。

 日本でも、こういう「子供の正装」は大切なものだと思うのです。特に葬儀に参列する場合には・・・

 私は葬儀には子供も参列すべきだと思っています。赤ちゃんや小さな子供でも、読経の間に騒いだり、泣いたりすることは案外少ないものです。木魚の音が子供たちの心を落ち着かせるのでしょうか?

 葬儀は人間の「命」について考える、最も良い機会です。葬儀の意味について、ぜひお子さんと話してください。

 そして、葬儀に参列するときに、きちんとした服装をすることの大切さも、ぜひ日ごろから話してあげてください。

 昨年、ある葬儀に参列したとき、女子高生が制服で参列していました。学生が制服で参列するのは良いのですが、スカートの丈が太ももの半分ほどの超ミニ丈。う~~ん・・・

 また、亡くなられた方のお孫さんらしい大学生(?)の男性は黒のジャケットは来ていましたが、ネクタイは無しで、シャツのボタンを二個はずしていました。これもう~ん・・・

 喪服は亡くなられた方への敬意と哀悼の気持ちを表すものです。高級なものである必要はありませんが、清潔で「きちんとした」ものであるべきでしょう。

 ハレとケの違いについて、家族で話す機会をぜひ作って下さい。

 私は、普段のファッションは、それぞれの人の「自分の気分」「自分の好き好き」「自己表現」が優先されるべきだと思っています。「ブランドだから」とか「今、流行っているから」とか、「学生らしく」とか「シニアらしく」などという外からの規制に左右される必要はないでしょう。

 しかし、喪服は例外だと思うのです。寺院や葬儀場という特別な場で、葬送という特別な状況に参加するのですから・・・

◎今日の写真はカナダのブリティッシュコロンビア州にあるオカナガン湖です。

趣味を一緒に楽しんだ友に送られて

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 Fさんの通夜、葬儀に参列して、京都から戻ってきました。今日は空が青くて、日差しの温かな一日だったのですが、私は一日中ぼんやりと過ごしていました。

 葬儀は盛大で参列者も予想を大きく上回っていたようで、葬儀場のスタッフはかなり慌てているように見受けられました。

 落ち着いて会場のスタッフに任せることができなかったご遺族がお気の毒でなりませんでした。こんなとき、僧侶も気づかいをすべき点がいくつもあることも学びました。例えば、自分のお説教の声がきちんと届いているかどうかは、少し注意すればわかるはずですから。

 小僧の時に、Fさんからは本当にたくさんのことを教えていただきました。檀家とお寺の関係の在り方、菩提寺に対する気持ちにどうこたえるかなど、住職になった今、Fさんの言葉が少しずつ「ああ、そうだったのか」と思いあたるようになりました。Fさんから受けた教えは、これからも長く私を支えてくれることでしょう。

 今回の葬儀でも、僧侶としての在り方、法要の儀式の進め方、お説教のありかたなど、さまざまなことを学ばせていただきました。

 私は御恩返しが全くできないうちに、Fさんとお別れすることになってしまいましたが、せめて・・・という思いをこめて、読経をさせていただきました。

 今回の葬儀で強く心に残ったのは、出棺の直前に、Fさんが長く趣味にしていた詩吟のお仲間が、友人を送る詩を吟じたことでした。10人ほどの人々の声は哀愁に満ち、友を送る真摯な気持ちがこもっていました。

 誰にでも親切で正直だったFさんは、たくさんの友人、知人たちに送られて極楽へ迎え取られたのだと、哀しみの中にも心が温まる思いでした。

◎今日の写真は和歌山市にあるお寺の庭です。大きな蓮の花が描かれています。極楽に迎え取られたときは蓮の花の上に生まれるそうです。さぞや美しいことでしょうね。

恩人を見送りに京都へ

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 昨日、本山から連絡があって、私が本山で小坊主として修行していた時代の恩人が亡くなられたことを知りました。

 慈雲寺の属する浄土宗西山派西山浄土宗)の総本山は京都府長岡京市にあります。僧侶になるためには、最低一年、この本山の中にある学校で、仏教の基礎や宗門の教えについて学びます。この間、男性の修行僧のほとんどは本山に泊まり込んで修行するのですが、女性は施設の問題で泊まり込みができません。

 昔は本山の中に尼僧の専門道場があったのですが、女性僧侶が減少して閉鎖になったのだそうです。

 そこで、私は本山の直壇(本山の光明寺の檀家)の一人であるKさんの家に下宿させていただいて本山に通ったのです。もう30年近く前のことになります。

 Kさんは「尼僧さんの面倒を見させていただくのは、家の名誉だ。」と言って下さり、怠け者の私をさまざまな面で助けてくださいました。

 Kさんは5年ほど前からお体を悪くなさり、奥様が献身的に介護されていました。奥様は大変苦労なさった方ですが、いつも明るく、生きることに積極的でした。

 亡くなられたのは、この奥様のFさんなのです。K家は農家ですから、簡単に家を空けることはできません。しかし、息子さんご夫婦が農業を立派に継いでいらっしゃるので、そろそろ数日の旅行ならできそう・・・という時期に来ていました。

 「東京生まれの、庵主さんに案内してもらって、ゆっくり東京見物をしたい。」とおっしゃっていたのに・・・こんな小さな御恩返しもできなくなってしまいました。

 京都の実家を失ったような気持ちです。思い出すことがあまりにたくさんあって、昨日からぼんやりしてしまっています。

 会いたくなったら、「いつか」とか「一段落したら」などと言わずに、すぐ行動に移すべきです。電話でも手紙でもメールでも、思いを伝えることが大切です。

 人はいつか必ず別れなければなりません。そのいつかは、明日かもしれないし、五分後かもしれないのですから・・・・

 これから京都へ向かい、お通夜、本葬に参列します。

◎今日の写真は長岡京市にある乗願寺の大仏(おおぼとけ)さんです。信仰深いFさんも、きっと阿弥陀様に迎え取られて、極楽に旅立つことでしょう。

4月の行事のお知らせ

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◎㋃の慈雲寺の行事予定

 ㋃はお釈迦様の誕生を祝う降誕会をはじめ、弘法大師の御正当など、さまざまな行事があります。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

 

1) 4月8日10時より 花まつり (お釈迦様の降誕会
仏教の教えを開かれたお釈迦様のお誕生日です。慈雲寺にもお釈迦様の誕生の姿を写した仏像があるとご近所の方から聞いていましたが、どこにも見当たりませんでした。しかし、先日、須弥壇の掃除をしていたら、小さな箱の中から、お釈迦様が!ようやく花まつりを祝うことができるようになりました。
10時より短い法要と、お釈迦様のお誕生のお話しをいたします。お子様方にはお菓子を用意しますので、ぜひお子様を連れてお参りください。

2) 4月11日(火曜) 夜7時半より 「満月写経の会」
慈雲寺では、いつでも気軽に写経をしていただけるように、本堂に必要な道具をいつも用意しています。お気軽に本堂にお参り下さり、写経を体験してください。また、毎月満月の夜は「満月写経の会」を行います。『般若心経』を一緒に読誦し、毎月少しずつ心経に説かれている教えを学んでいきます。


3) 4月17日(月曜)10時より 「弘法大師御正当日」
弘法大師像のお身拭いをいたします。
慈雲寺は浄土宗西山派西山浄土宗)に属する寺院ですが、不思議なご縁で弘法大師さまもお祀りしています。旧暦の3月21日は弘法大師さまの御正当日(祥月命日)です。今年は4月17日が旧暦の3月21日になります。
この日は、お大師様のお像を須弥壇から降ろし、一年の埃を払うお身拭いをいたします。体に不調がある方は特にご縁を結んで御利益を授かってください。
お身拭いの布などはこちらでご用意しますが、特にどなたかの代参でおいでになる方は、その方が普段使っていらっしゃるハンカチなどの布を洗ってご持参なさるのをお勧めします。


4) 4月23日(日曜)10時 「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」テーマ:仏教が教える「生きがい」とは
 仏教は、先祖の御供養や葬儀・法事などだけにかかわる教えではありません。むしろ、生きている私たちが、いかに苦しみ少なく、生きがいのある穏やかな暮らしをしていくかについての教えです。
 仏教が説く「生きがい」とは何でしょうか?私たちはどこからきて、どこへ行くのでしょう。仏教は生きることを「苦」だと教えていますが、その認識を基点にしながら、どうしたら豊かで喜びの多い毎日を生きていかれるのか、御一緒に考えてみましょう。

☆行事の日だけでなく、さまざまなご相談に応じます。お気軽にお寺においでになってください。

◎今日の写真は昨日アップしたウズベキスタンの伝統的な帽子を横から見たところです。縁にもきれいなビーズの刺繍がほどこされています。

 

3月26日の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」のテーマは「散骨の時代に改めて寺縁墓を考える」です。

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 3月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は3月26日10時より行います。

 テーマは、お墓について改めて考えてみましょう。御遺骨の埋葬法については、最近、さまざまな変化が起きています。伝統的な寺院や霊園の墓地だけでなく、納骨堂、合祀墓、そして散骨まで、方法も多様化しています。高層ビルにハイテクを駆使した大型納骨堂が名古屋にも進出してきました。

 また、少子化の時代に入り、お墓の維持を懸念する人も多いことでしょう。

 こんな時代だからこそ、改めて“寺縁墓”について考えてみたいと思います。生きている間から、穏やかな暮らしを送るためにお寺とのご縁を深め、お墓の問題はその延長線上にあるべきではないでしょうか?

 どなたでもお気軽にご参加くださいませ。

◎慈雲寺への公共交通によるアクセスのご案内

 申し訳ありませんが、慈雲寺には十分な駐車場がありません。なるべく公共交通を使っておいでくださいませ。
 名鉄有松駅前から、「有松12番 有松町口無池行き 地蔵池経由」に乗ってください。日曜の9時台は二番乗り場から9時07分と36分に発車します。これらのバスに乗り、郷前(ごうまえ)の停留所でお降りください。そのまま道なりに進むと郷前の交差点に出ます。角に鍼灸院があり、その右手の細い坂道を上がると慈雲寺の屋根が見えてきます。
   また、時間はかかりますが、地下鉄の鳴子北駅から出ている「鳴子13番」のバスも郷前に停まります。日曜は8時45分にバスが出ます。
●栄のバスターミナルからは森の里団地行きのバスが一時間に一本出ています。この場合は、郷前の停留所から道を戻って郷前の交差点に行ってください。日曜は8時50分発があります。所要時間は約40分
●JRの大高駅から緑循環バスの名鉄有松行で郷前に行くことができます。日曜は8時44分と9時44分に出発します。9時台のバスですと10時の開始時間には少し遅れますが、あわてずにおいでください。
●また、同じ緑循環バスの名鉄有松行は南大高駅東にも停車します。9時9分発です。
●JRの共和駅からタクシーで5分。市バスはありません。「郷前の交差点近くの慈雲寺」とおっしゃってください。慈雲寺を知らないタクシーの運転手もいますので、その場合は郷前の交差点の鍼灸院で降りてください。鍼灸院からお寺の屋根が見えます。

◎今日の写真はウズベキスタンの伝統的な帽子です。ビーズで美しい刺繍が施されています。

「テロ」と「非国民」・・・一刀両断の言葉の危険性

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 昨日からテレビは籠池氏の証人喚問のことばかり・・・この問題は日本の民主主義の根幹にかかわる問題ですから、注目を浴びるのは当然です。「百万円」が事実かどうかはもちろんですが、この点に矮小化するのではなく、政治家と官僚の結びつき、「口利き」などの、多くの関係者もきちんと喚問すべきでしょう。

 しかし、私が深く気にかかっているのは一昨日(3月21日)に、「共謀罪」法案の国会提出が決まったという問題です。

 私は大学時代に法学部で、法哲学と法制史を専攻しました。宗教と不可分だった古代法が専門だったので、そこから比較宗教学に興味を持つようになったのです。ですかtら、新しい法案が論議されるたびに、いつもいろいろと考えてしまいます。

 今回の「共謀罪」は、非常に危険な要素をはらんでいると思います。「犯罪にかかわりのない一般の人は関係ない」と思うかもしれませんが、法律は時間や権力者の意思によって拡大されたり、捻じ曲げられて解釈されるようになる危険性を常にはらんでいます。

 今回は「テロリズム集団」という言葉がとても気になります。いったい、「テロリスト」という判断基準はどこにあるのでしょう?政府や権力を持つものが、気に入らない人間に「テロリスト」とレッテルを勝手に張り付ける危険性は否定できません。レッテルをはれば、実際に犯罪が起きる前から処罰できるのが今回の「テロ等準備罪」です。

 70年前、「非国民」とレッテルを張りさえすれば、どのような拘束も暴力も無制限に行うことができた時代に逆戻りするのではと懸念せざるを得ません。

 もちろん仏教徒は、いかなる理由があっても暴力を容認すべきではありません。当然、テロ行為を認めるわけにはいきません。しかし、アラブの人々の行為は「テロ」で、それにアメリカ軍が報復攻撃をするのは「正義」という図式も間違いでしょう。

 民主主義は選挙がすべてですが、政府や官僚の行動に疑問を持ち、声を上げる権利は常に保証されていなければなりません。もちろん賛同する権利もです。

 レッテル張りで一刀両断することの危険を忘れてはならないでしょう。

◎今日の写真はウズベキスタンで見た焼き物です。美しい藍色が心に残りました。