慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

思い立った日が御供養の最良の時

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 先日、Sさんという方から御尊父の年忌法要ついて相談をいただきました。Sさんは、時々、「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」を聴きにきてくださる方です。

 お父様が亡くなられてから、ちょうど三回忌にあたる時期なのですが、事情があって法事に参列できなかったので、慈雲寺で供養して欲しいとのことでした。

 Sさんは「こんなお願いできるでしょうか?」と心配されていました。

 もちろんできます!

 初七日の供養から始まって、50回忌、100回忌まで、日本の年忌法要のシステムはとても良くできています。近しい人をお浄土へ見送った人々の哀しみが癒されるプロセスで、ちょうど良いタイミングで、法事が行われるようになっているのです。日本人が長い間に培ってきた、ご先祖供養の伝統です。

 しかし、時期と「気持ち」を無理やり合わせる必要はありません。御供養は、亡くなった方を偲びたいという気持ちがおきた時なら、いつでも良いのです。御供養したいと思い立った時がベストだと私は考えています。

 もちろん、「法事なんか全然する気持ちになれない」という人もいるでしょう。そういう時でも、長年の宗教的慣習や「世間の智慧」に従って、法事を無理をして(??)やってみると、案外「ああ、自分の気持ちに素直になれた」とか、「家族、親族の気持ちが理解できた」、「亡くなった人の思いを受け止められた」と感じる人も多いと思います。それが「宗教的慣習」の力です。

 Sさんのことも、お気持ちにできる限り沿えるように相談しながら御供養させていただこうと思っています。

 慈雲寺は浄土宗の西山派(西山浄土宗)に属していますが、どの宗派も皆、お釈迦様の教えです。宗派にかかわらず、いつでも御供養させていただきます。年忌法要でも、お仏壇やお墓での御供養についてもご遠慮なくご相談ください。

◎今日の写真は西山浄土宗の総本山、光明寺の紅葉参道の様子です。

古希の祝いをお寺で - お祝いごとにもお寺にご縁を結んでみましょう

 

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 今日はとても嬉しいことがありました。いつも「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」に来て下さるKさんの古希を祝う集いを慈雲寺で行ってくださったのです。

 集まったのは、奥様、お子さん、お孫さんなど10人ほど。短い法要でご先祖に、皆が、健やかにこの日を迎えられたことを感謝。その後、賑やかなお食事会になり、私も参加させていただきました。

 仏教はご先祖の御供養はもちろんのことですが、生きている人ができる限り穏やかに苦しみ少なく暮らしていくための智慧です。

 70年というときの流れを生きてきたKさん。苦しいことも哀しいこともあったでしょう。そして、嬉しいこと、楽しいこともたくさんあったことでしょう。その喜びも悲しみも共にしてきたのが家族です。友人、知人の支え、そしてご先祖の加護もあって、ここまで歩んできたわけです。そのことを感謝する集いのお手伝いができるのは本当にありがたいです。 

 長寿の祝いに、慈雲寺を選んで下さったことを阿弥陀さまも菩薩様も、K家のご先祖さまたちもきっと喜んでいらっしゃることでしょう。

 私が慈雲寺に赴任してから三年半ですが、このような機会は二度目です。最初は、

Sさんという、ご自分の家の歴史に興味を持って色々調べていた方が、その成果を慈雲寺で発表する会を企画したのです。その調査の間にわかった縁者の方々をお呼びして、みんなでご先祖に感謝の法要をした後、慈雲寺で仕出しをとって食事会をしました。

 さまざまな話が出て、笑いがいっぱいの会になりましたよ。

 これからは、もっと、こうしたお祝いごとにも慈雲寺を利用していただきたいと願っています。客殿は数十人ならお食事会やお茶の会をしていただけます。

 どなたでも、お気軽にご相談ください。

◎今日の写真は京都、嵐山の竹林です。

国立京都博物館で「国宝展」を見る・・・敗北・・・

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 今、京都の国立博物館で日本中の国宝指定を受けた美術工芸品を一挙に展示する「国宝展」が開かれています。展示されているものの全てが国宝!11月26日までです。会期は四つに分かれていて、展示品も入れ替わる。各期ごとに見に行こうと思っていたのですが上手くいかず・・・とうとう先日、行くことができました。しかし・・・結果は敗北でした。

 あまりにも人が多い・・・・

 まあ、私はモナ・リザミロのビーナスが来日公開された時の長蛇の列を覚えていますから、それに比べれば入場待ち時間50分は大したことはないかもしれませんが・・・

 私が出かけた期間の目玉は金印。金印を近くで見たい人は、別枠の行列があって40分待ちでした。私はこの金印を所蔵している福岡市博物館で見たことがあります。確かに、小さいので近くで見たいという気持ちはわかるけど・・・・人混みの向こうにチラリと見えた金印は燦然と輝いてました。

 3時間ぐらいかけて、ゆっくり鑑賞するつもりで出かけたのですが、あまりの人混みの凄さにすっかり怖気づき、一時間もしないうちに出てきてしまいました。でも、お目当ての仁和寺薬師如来さまは拝めたし、狩野永徳の「花鳥図襖」にも出会えた。息が止まりそうになるほど美しい油滴天目茶碗も見たし(ライティングが素晴らしかった!)ま、いいか・・・

 でも、国宝はゆっくり見たいなぁ・・・・以前、山口の県立美術館で雪舟の展覧会があったときは、あまり人がいなくて良かった・・・・なんて勝手なことを思いながら会場を後にしました。

 あれほどたくさんの人が、自分の国の宝に興味を持ち、長い待ち時間にも、混雑にもめげずにやってくるというのは、嬉しいことです。でも、今、私は廃仏毀釈の時の本を読み始めているので、「つい150年前、日本の城を壊し、寺を壊し、仏像を壊しまくったのも私たちだよなぁ・・・タリバン顔負け」なんて、ちょっと思ったりしました。

 慈雲寺の御本尊も、どうやらかなりの苦労をしてきたらしい。像全体が焦げていて、しかも大阪の一般家庭にあったらしい・・・もしかしたら、廃仏毀釈の犠牲者?今は慈雲寺でのんびりしていただきたいものです。

◎今日の写真は滋賀県五箇荘で見た落ち葉です。

 

 

教学者の研究成果を布教に生かしていくのが説教師

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 二か月に一度、私の属する浄土宗西山派西山浄土宗)の教えを研究する「西山教学」の若手のエース、Sさんの講義が本山で行われます。

 Sさんは、研究熱心なことはもちろん、じっくり考える思索家であり、俗世の栄華や評価は少しも気にならないタイプ。しかも、この方は、証空上人の教えを心から愛して喜んでいる。

 教えを与えられたことを喜ぶ気持ちが大切です。念仏申すことを喜べるかどうかが、法然上人から証空上人に受け継がれた教えの根幹なのです。

 阿弥陀様に願われている・・・ということに気が付いたら、喜びのあまり口からこぼれ落ちてくるのがお念仏なのです。

 このことは、西山浄土宗の信仰の出発点なのですが、なかなかわかりにくいところです。

 今夜はゆっくり、今日の授業のノートの見直しながら、至福の時を過ごしています。

布教師は、教学研究の成果を踏まえ、それを一般の方々にわかりやすく解説するのが大事な役割。

 私ももっと頑張らなくては!

◎今日の写真は、龍谷ミュージアムのエントランスです。この博物館は小さいけれど、おもしろい展示をするおすすめの場所です。

 

お寺をコミュニティのセーフティネットに

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 今日は伸び放題になっていた生垣の枝払いをしました。時期的には適切とは言えないでしょうが、お墓参りの方が邪魔に感じるほど伸びていたので・・・すっかり汗だくになってしまいましたが、なんだか気持ちが良い!毎日、少しずつ整えていくことにします。

 さて、今日インターネットでボンヤリとテレビ番組を見ていたら、「コミュニティのセーフティネット」という言葉が耳に入ってきました。昔は「ご近所」のつながりがしっかりしていて、鍵っ子を見守ったり、障害のある人をサポートしたり、一人住まいの老人を見守ったりと、さまざまなことで「ご近所」が助け合っていたというのです。しかし、今はお隣さんの名前も知らず、助け合いもない。葬儀の知らせも回ってこない、町内会にも参加したくない・・・という人も増えてきたとか。

 私が慈雲寺に赴任してきたとき、すぐ気が付いたことがあります。この周辺には南北朝時代から住んでいる「地元の人」がたくさんいて、念仏講や庚申講なども残っているということです。一方、大きな団地や新しく住宅開発されたところもあり、なかなか複雑な地域のようでした。私は少しだけ社会学を齧ったので、このような組み合わせのコミュニティはとても興味深いと思っています。

 慈雲寺は(というか、尼寺の多くは)伝統的な意味での檀家を持っていません。しかし、長い間「村の庵主さん」という立ち位置で、他のお寺の月参りの代理をしたり、さまざまな相談に乗ったりしてきたようです。

 寺院というものは、ご先祖の供養はもちろんのことですが、生きている人々の役に立つことが第一だと思っています。どうすれば、できるだけ苦しみ少なく、穏やかに生きていかれるのかという智慧が仏教の教えだからです。

 その為には、慈雲寺は「セーフティネット」の役割を担っていきたいと思っています。「自分の居場所がない」と感じたとき、「そうだ。慈雲寺に行って少し心を落ち着けてみよう」と思ってくれる人がいれば、仏様も弘法様もとっても喜んでくれるでしょう。

 「今日は学校へ行きたくない」と思った子供が、本堂で本を読んで一日ゆったり過ごしてくれるのも嬉しい。保健室で一日待機しているなら、時々慈雲寺に来て、気分を変えませんか?勉強が苦手で学校がつらいなら、英語だけでも苦手を克服しませんか?お手伝いしますよ。

 「誰も自分の思いを聞いてくれない」と思うなら、阿弥陀さまや弘法大師さまにお話ししてみませんか?私でよければ、私にも聞かせて下さい。あなたのお話しは、お寺から外へはけして広がっていきませんから。

 「自分は何もできない。何も役に立たない」と思う日は、慈雲寺に来てください。一緒に枝払いでもしませんか?慈雲寺ではたくさん役に立てることがありますよ!

◎今日の写真は京都の嵐山の竹林です。

神仏習合について再勉強中!

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 11月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、神仏習合についてお話しすることにしました。先日、京都へ取材に行って新熊野神社を訪ねたときに思いついたのです。この神社は名前の通り、熊野の神々を祀る神社で、境内の建物や木々それぞれを神(仏)に見立てて、全体が曼荼羅になっているのです。

 境内には熊野信仰独特の神仏習合についての解説板もあり、とても興味深いものでした。また、社殿の裏側の崖の上には、ミニ熊野古道が造られていて、それぞれの王子を巡拝することもできるようになっています。

 熊野大社阿弥陀仏の化身として信仰され、一遍上人も熊野で阿弥陀仏を感得したと伝えられています。

 日本人の信仰の中に深く根付いてきた神仏習合の思想は、比較宗教学を専攻していた時代から興味がありました。今、関連した本を読み返していると、本当に面白い!、どうやって、短い時間でわかりやすく皆さんに説明できるか、これからしばらく考えてみなければなりません。でも、楽しい作業になりそうです。

 「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は11月19日10時より行います。どなたでもお気軽にご参加ください。

◎今日の写真は、その新熊野神社のミニ熊野古道です。

 

法然上人の月影のお歌

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 昨日の「満月写経の会」は参加者三名でしたが、静かで心地よいときを過ごすことができました。月明りの下で読経するのもいいですね。

 12月の「満月写経の会」は12月4日7時半より行います。どなたでもお気軽にご参加ください。

 さて、月光といえば、法然源空上人(法然上人)の詠まれたお歌に

「月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ」

というのがあります。一般的な解釈は「阿弥陀仏の本願(全ての衆生を救うという誓い)は、月の光のようにどこの里にも降り注がれている。しかし、月を眺めない人には月の光の存在はわからない。このように南無阿弥陀仏の念仏を称えた人だけが、極楽へ往生できるのだ」とされています。しかし、私はどうも、この説明が心にしっくりこないのです。

 阿弥陀様は何の条件もつけずに、私たちの全てを救うと誓われ、その誓いが成就したからこそ、阿弥陀仏になられているのですから・・・・

 念仏を称える人だけが救われる・・・う~~ん・・・念仏はたくさんした方がよいですか???

 上の説明では、「キリストの愛は万人に開かれているけれど、キリストを受け入れなければ、天国へはいけない」というキリスト教の考え方とどう違うのでしょう?

 たしかに、たとえ阿弥陀仏といえども、縁無き衆生はいかんともしがたい・・・今生で阿弥陀仏とのご縁が結ばれなければ、私たちはまた流転を繰り返していかなければならないのでしょう。

 でも、私たちは法蔵菩薩の深いお慈悲、阿弥陀仏になられた因縁を聞かせてもらうだけで、「ああ・・・そうだったのか」と、心に本当の安堵が満ちたときに、口からこぼれ出てくるのがお念仏です。

 お念仏をするから救われるのではないのです。う~ん・・・どう説明したらよいのかなぁ。

 次の満月までに、法然上人の月影のお歌の、もっとわかりやすい解説に出会いたいものです。