慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

孤独を楽しめる心を育む、信仰・図書館・美術館

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 私が親から受けた恩は山ほどありますが、特にありがたいと思っているのは、「本を読むのは面白い!本は何処へでも私を連れて行ってくれるし、けして離れない友達でいてくれる」ということと、「美術館や博物館は、最高の娯楽だ!」、そして「神社やお寺、お墓参りは楽しい!」ということを教えてもらったことです。

 偶然なのですが、私は実家にいるときも、カナダにいたときも、いつも図書館のすぐそばに暮らしていました。慈雲寺に赴任して、不満はほとんどない、むしろ私のようなものには有難すぎる環境なのですが、一つだけ・・・図書館が遠い!一時間に一本のバスに乗って40分もかかる・・・おまけに古本屋街も遠い!

 あ、つい興奮してしまいました。

 信仰・図書館・美術館の良いところは、一人で楽しめること。自分がどんな状況でも阿弥陀様は受け入れてくれるし、本もいつも私を待っています。美しい美術品や歴史的な遺物は、本来なら近づけもしないものでしょうに、現代に生きていて良かった!

 そして、信仰・読書・芸術はたくさんの人と一緒に楽しむこともできるのがさらに良いところです。仏様と一人だけで向き合うのも良いし、同じ信仰を持つ同朋・同行と一緒も嬉しい。本について語りあうのは楽しいし、一緒に美術館や博物館に行ける友もありがたいですね。

 孤独を楽しめる心を育むには、本と芸術が一番では?そして利他の心を養う信仰が大事だと思います。

◎今日の写真は北京の郊外で見たスクーター(?)です。ちょっと欲しいな。

もう一冊のお勧め仏教入門書

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 今日、仏教の入門書について「お勧めの本はありませんか?」と聞いてくださった方がまたいらっしゃいました。前回は城福雅伸先生の『明解仏教入門』(春秋社)をおすすめしまたが、今回は哲学者の梅原猛先生の『仏教入門』(朝日新聞社)をご紹介したいと思います。

 城福先生は仏教学が御専門ですが、梅原先生は日本の思想史を深く研究なさった方ですが僧侶ではありません。宗教家の立場とは違うところから仏教を考察し、解説してくださっています。

 この本がとてもユニークなのは、梅原先生が中学生を対象として行った集中講義が基本になって生まれたという点です。先生は中学生にもわかりやすく説明していますが、けして「レベルを落として」説明したり、「上から押し付けるように」教えたりしていません。非常に丁寧に基本から積み上げていくように講義を進めています。

 最初の講義が「なぜ宗教が必要なのだろうか?」という問いから始まっているところも、さすがに哲学者だと思いました。この本は青少年ばかりでなく、大人にも、すでに仏教徒になっている人々にも、そして僧侶にも多くのことを学ばせてくれるものだと思います。

 また、宗教用語、仏教用語、人名などに丁寧にルビがふってあるのも、ありがたいですね。

◎今日の写真はカナダ・バンクーバー市のクィーン・エリザベス公園です。

 

孤独でも孤立はしない

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 今朝の中日新聞五木寛之さんの本の広告が出ていました。『孤独のすすめ』・・・まあ、なんと魅力的なタイトルでしょう。キャッチコピーは「あなたは孤独な老人ですか?それなら、人生は豊かになります」、「元気な百歳老人、孫に囲まれる老後は、本当にそれだけで幸せでしょうか?」・・・う~~ん、これもなかなかいい。今日、本屋に行って、この本が並んでいたら買うなぁ!

 私は日本に戻って、新聞や週刊誌にしばしば「独居老人」とか「孤独死」とかいう言葉が出てくるのに、いつも違和感がありました。自分がお寺に独居する尼僧だからかも??「独居老人」という言葉には、何か非難めいた、もしくは憐れんでいるような論調が付いてくるのが気になります。

 一人で住んでいても、孤立しているとは限りません。その人は趣味の仲間や信仰をともにする同行者との豊かな交流があるかもしれません。反対に、一つ屋根の下に何人もの人が同居している家でも、精神的に孤立している老人や子供はいるでしょう。誰にも理解されていない、顔を見ても気にもとめてもらえない人もいるのではないでしょうか?

 阿弥陀さまの御慈悲に気づいた人は、もう決して孤立してはいません。阿弥陀仏は一切の条件を付けずに、私たちを抱きとり、いつも一緒にいてくださるからです。特に私たちの浄土宗西山派西山浄土宗)の教えは、100%の絶対他力です。私たちは阿弥陀さまが、なぜ阿弥陀仏になられているのかを聞かせてもらうだけで良いのです。「信じる」ことすら条件ではありません。疑いの心がおきるのは、凡夫の本性ですからね。

 善い子だからとか、成績が良いからとか、姿が美しいからとか・・・そんな条件はいっさいなく、阿弥陀さまは私たちを救ってくださっています。

 山の中に一人で住んでいても、お寺で一人でいても、都会の雑踏の中を一人で歩いているときも、阿弥陀仏のお慈悲に包まれているのですから、私たちは孤立しているわけではないのです。

 他の人々のために自分ができることを積極的にさせてもらおうという「利他」の生き方が仏教徒の暮らしの基本です。そんな人に孤立はありえないでしょう。

 でも、やはり寂しいなぁ・・・と思うときはあるでしょう。そんな日は、どうぞお寺へお参りに行ってください。阿弥陀様のやさしいお顔をゆっくり拝むだけで、心が温かくなってきますよ。和尚さんとお話しして、ちょっと一服できたら理想的ですね。

◎今日の写真は大阪の住吉大社で見た弁天様です。

 

家族のことで心が重い時はお墓参りに行ってみてはいかがでしょう。

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 先日、中年の男性が慈雲寺を訪ねて下さいました。どうやら、慈雲寺の墓地に御親戚のお墓があるようです。「以前は親戚の人と一緒にお参りに来ていたが、その人たちと疎遠になったので、お参りに来にくくなった。でも、どうしてもお参りしたくなったのですが、墓地に入っても良いですか?」と聞かれたのです。

 お墓参りは「お墓を御守りしている人」だけのものではありません。血縁的には遠くても、心情的に近しい親戚はいるでしょうし、友達や恩人のお墓まりをしたいという方もいるでしょう。

 家族、親族の問題で心が重くなった時には、お墓参りをなさってみてはどうでしょうか?ご両親や祖父母だけでなく、曾祖父や曾祖母、大叔父さんや大叔母さんのお墓にお参りしてみてはどうでしょう?自分が幼かったときに可愛がってもらった方々のお墓にお参りしてみるのもおすすめです。

 自分のルーツを訪ね、自分が「一人ではない」としることは大切なことです。墓地を清め、静かに手を合わせて感謝すると、自然に心が落ち着いてきます。

 寺院の中にある墓地なら、ぜひ本堂へお参りしてください。和尚さんとお話しできればなお良いでしょう。

 大きな公営霊園にお墓を持つのも、いろいろと便利でしょう。また、大規模な納骨堂などのある寺院墓地にも良い点はたくさんあると思います。しかし、墓地は「遺骨置き場」ではなく、先祖と生きている人々のご縁を豊かにする場であるべきだと思います。

 お墓参りに行けば、本堂で仏様に祈れる。和尚さんとお話しができる。お寺とのご縁を深めて、仏教徒として穏やかな暮らしをいとなむきっかけとする・・・・こうした「生きたご縁」を結べる場の良さにぜひ思いをめぐらせていただきたいのです。

 ともあれ、家族、親族のことで悩みがあったら、ぜひお墓参りをしてみましょう。お寺まで散策するだけでも、気持ちに新しい風が吹いてくるかもしれませんよ。

あなたは幽霊を見たことがありますか?

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 今日は少し長い時間電車に乗っていたので、その間に宮部みゆきの『チヨ子』という短編集を読みました。そこに『いしまくら』という題名の作品が含まれていました。

 それを読んでいるうちに、先日ある方から「庵主様は幽霊を見たことがありますか?」という質問を受けたことを思い出しました。

 『いしまくら』の中に、こんな文章がありました。「人は見たいものを見る。外界を見ているつもりでも、結局は自分の心の内側を見ているだけなのだ。」

 この小説に登場する男は、女子学生を殺してしまうのですが、別の場所に‟現れた”幽霊を目撃し、その目撃談が結局は自分が殺した少女を描写していたということがわかるのです。

 「彼の内側には、いつだって、本当に本物の幽霊がいたのだ。彼の内なる良心は幽霊の形を成して彼の心の底に居座っていた。そして彼を脅かしていた。」

 私はこの世の中に、説明できないもの、見えないものが存在することを否定しません。幽霊を見たという人も頭から否定はしません。それを「見た」人にとっては「存在」するのですから・・・

 しかし、ほとんどの場合、それは私たちの心が作り出した妄想でしょう。罪悪感や怯えが生み出す、「見たいものを見ている」状態だと思うのです。

 慈雲寺に赴任してから、古い家屋が発する不思議な音を聞いたり、部屋の隅の暗がりが、そこだけ妙に漆黒に見えたりとか・・・いやいや・・・私もいろいろな不安があったのでしょうね。

 善いことをする、悪いことを避ける、他の人々のためにできることをさせてもらう、ご先祖や恩人たちを大切にする・・・こうした基本的な「善き暮らし」を続けている人に幽霊はなかなか現れないのではないでしょうか?

不思議な赤銅色の月でしたね。写経をして月食を待ちました。

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 今回の「満月写経の会」の参加者は私も入れて三人。寒い本堂で静かに写経をした後、お茶とお菓子をいただきながら月食を待ちました。

 月食の始まりは8時48分。時折本堂の縁側へ出て月を眺めると、どんどん月食が進んでいきます。慈雲寺は小さなお寺ですが、それでも本堂前の空間は広々。空も大きく広がっています。月食が進むにつれて、空の星たちが浮かび上がってきます。普段は周囲の人工的な灯りのせいで、月の明るさをあまり気にしたことはないのですが、満月の光は驚くほどパワフル。それが消えていくと、星がたくさん輝いているのに気が付きました。

 そして皆既月食です。月が不思議な赤銅色にぼんやり色づいて見えます。私たちが宇宙に浮かぶ小さな惑星に住んでいることをしみじみと思い出しました。これも不思議な感情です。やがて、細い線のように光が再び見え始め、月が元の形に戻っていきます。 

 月光はしばしば阿弥陀様の御慈悲に例えられます。月はいつでも天空にあるのに、私たちの目は煩悩にさえぎられて、しばしば月明りを見失ってしまうのですね。戻って来たお月様を喜びながら、今日はゆったりとした気持ちで眠れそうです。

月食の始まりは20時48分ごろ。写経をしながら宇宙の不思議を体験しませんか?

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 慈雲寺では、満月の夜ごとに写経の会をしています。今月は31日が二回目の満月です。

 夜7時半より『般若心経』の読経を御一緒にしましょう。心経の内容についても、少しずつ学んでいきます。

 その後は写経を行いますが、慈雲寺の写経の会は「自身の気持ちにゆったりと向き合う」ことを目的にしています。集中して心経を写しても良いですし、「今日はお月見だけ」という気持ちでも結構です。字の上手下手も関係ありません。

 31日は皆既月食になるそうですから、時間がある方は深夜までお寺に残って下さっても結構です。ただし、慈雲寺の本堂には十分な暖房がありませんから、どうそ温かい服装でおいでください。

 どなたでも歓迎いたします。

◎慈雲寺への公共交通のアクセス
 慈雲寺には十分な駐車場がありませんが、写経の会の時はそれほど多くの方がおいでになるわけではないので、お車でおいでになっても大丈夫です。もちろん、バスもご利用いただけます。
 名鉄有松駅前から、「有松12番 有松町口無池行き 地蔵池経由」に乗ってください。これらのバスに乗り、郷前(ごうまえ)の停留所でお降りください。そのまま道なりに進むと郷前の交差点に出ます。角に鍼灸院があり、その右手の細い坂道を上がると慈雲寺の屋根が見えてきます。
   また、時間はかかりますが、地下鉄の鳴子北駅から出ている「鳴子13番」のバスも郷前に停まります。
●栄のバスターミナルからは森の里団地行きのバスが一時間に一本出ています。この場合は、郷前の停留所から道を戻って郷前の交差点に行ってください。所要時間は約40分
●JRの共和駅からタクシーで5分。市バスはありません。「郷前の交差点近くの慈雲寺」とおっしゃってください。慈雲寺を知らないタクシーの運転手もいますので、その場合は郷前の交差点の鍼灸院で降りてください。鍼灸院からお寺の屋根が見えます