慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

雪舟の「慧可断臂図」が気になる

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 上の写真は、雪舟の代表作の一つ、「慧可断臂図」と呼ばれる絵です。達磨大師が座禅をしているところに、ある僧侶が弟子にしてほしいと願ってきます。しかし、達磨大師は振り向こうともしません。弟子入りを強く願う僧侶は、なんと自分の左手を切って決意を示します。それを見た達磨大師は、ついに入門を許し、その弟子は、やがて慧可という達磨大師の後継者となったというお話しを題材にしています。

 私は中学生の時に初めてこの絵を見ました。雪舟の絵を意識的に見たのは、たぶんそれが初めて。慧可の差し出す手首には、うっすらと血がにじんでいてのが強烈な印象でした。

 しかし、その時から今まで、私はこの絵を見るたびに、なんだか「う~ん・・・」という気持ちになってしまいます。慧可はなぜ左手を差し出したのでしょう?それだけ強い決意を見せたということでしょうか?達磨大師はそこまでする慧可の決意を認めたということでしょうか?う~ん・・・そうかなぁ・・・

 「手を切ることによって、今までのとらわれた自己を絶って、弟子になる決意をしたのだ」という説明も見たことがあります。それもしっくりきません。

 第一に、達磨大師はなんだか迷惑そうなお顔じゃありませんか?「慧可よ、問題はそんなところにあるわけではない」とでも言いたげです。

 まあ、自分で自分の手を切るとなると、右利きなら左手を切るしかないのだとは思いますが、決意を見せるなら、利き手を切れと思いませんか?左手では、決意が足りないと思いませんか?

 足なら良かったのか、目ではどうでしょう?達磨大師が求めていたのは、そんなことではないのでは?「ちゃいまんがな」と、なぜか変な関西弁をつぶやきながら、達磨大師が顔をしかめているように見えて仕方がありません。

 まあ、これが分からない私は、お念仏の道に出会って良かった・・・ということかもしれません。

6月の「満月写経の会」は6月28日です。慈雲寺の写経は「ゆったりと自分の気持ちに向き合う」体験の場です。

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 慈雲寺では、毎月満月の夜に写経の会を行っています。写経の会はいろいろなお寺で催されていますが、慈雲寺の特徴は「ゆるやか」と「のほほん」です。

 お経は、全てお釈迦様の仏語ですから、精進潔斎してから筆をとり、一文字書くごとに三拝する・・・という厳しい態度で臨むのも良いでしょう。しかし、一つぐらい、のほほんと、お月見を兼ねて、ゆるやかな気持ちでお釈迦様の御言葉に向き合うお寺があっても良いのではと思いました。

 修行としての写経を目指している方には「緩すぎる!」と思われる方もあるかもしれませんが、無理をして写経するより、「今日はここまで」と自分で決めて、後はのんびりお月様を眺めても良いのではと思います。

 お茶をご用意しますから、お好きなお菓子持参も歓迎です。

 もし、一人でじっくり写経をしたい方は、慈雲寺の本堂にはいつでも写経をしていただける用意がありますので、お好きな時にご自分のペースでなさってください。

 6月28日は夜7時半から、御一緒に「般若心経」を読誦します。その後、毎月少しずつ、心経の内容についてもお話しいたします。何時から参加して下さっても結構です。

 初心者の方も、どなたでもお気軽にご参加ください。必要な道具も全て揃っていますが、筆ペンを使いますので、毛筆を使いたい方は、ご自分の道具をお持ち下さい。

 慈雲寺で行われる宗教行事は全て無料です。仏様やご先祖さまの御供養のため、寺院の維持のために、お気持ちを御喜捨いただければ有難く存じます。

◎今日は朝から「夏本番近し!」という感じの蒸し暑さですね。今日の写真は、涼しそうな雪山と満月です。インターネットの画像からお借りしました。

次々届く本!「業」のお勉強再開

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 慈雲寺では、毎月「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」を行っています。身近な話題を取り上げて、仏教の基本的な考え方、ものの見方を一緒に学んでいこうというものです。この「一緒」というのは、文字通りの意味で、来月のテーマを決めたら、一か月かけて勉強のし直しです。原稿を作っているうちに、自分でも理解が不十分なところが見えてきて、楽しいけれど困る・・・という不思議な気持ちになります。

 最近はテーマが決まるとすぐAmazonで検索して、関連してい本で足りないものを注文します。これはカナダにいるときは出来なかったことで、日本へ戻ってきた嬉しさの一つです。今回は、本山で勉強していたときに図書館で読んだ、佐々木現順先生の『業の思想』をまず注文。Amazonでは、選んだ本と関連した別の本も画面に出てくる(マクドナルドでハンバーガーを注文すると、「ポテトはいかが?」と勧められるみたいな感じ)ので、つい他の本も注文してしまいます。古本なので、一冊一円などというのもあり、気が大きくなってしまいます。一冊一円の本でも、手数料も送料もかかるので、数が増えれば金額も大きくなるのですが・・・ポチポチとパソコンのキーを押してしまった結果が、昨日からどんどん届いています。

 ああ・・・でも、本が届くのは嬉しいなぁ。

◎今日の写真は大阪の法善寺横丁で見た阿弥陀様です。

大阪府北部地震の影響が本山にも

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 慈雲寺は、法然源空上人(法然上人)を宗祖に仰ぎ、その高弟の善慧房證空上人(西山上人)を流祖とする浄土宗西山派西山浄土宗)に属しています。総本山の光明寺は、京都府長岡京市にあります。

 光明寺は、法然上人が、阿弥陀仏の救いについて初めて一般の人に説いた場所に建てられており、まさに「浄土門根元地」です。そして、法然上人の御遺骸は、この地で荼毘に付され、ご遺灰は境内の一番高い場所に祀られています。以来、光明寺法然上人の御本廟として、ご遺灰をお護りし、その教えを受け継いできたのです。

 18日に発生した大阪府北部地震は、亡くなられた方々をはじめ、多くの被害が出たと聞いています。亡くなられた方のご冥福をお祈りし、残されたご家族、縁者の方々の哀しみが少しずつでも癒されることを願っています。

 この地震光明寺にも大きな被害をもたらしました。境内にある江戸時代の建物の一部が傾いたり、構造に影響が出たりしたのです。被害の詳しい内容はまだ調査の段階ですが、何より御本廟に影響がなかったのかが心配です。

 不思議なことですが、近畿地方活断層や「地震の危険地帯」のハザードマップなどを見ると、大きな寺社がまるで重しのように、断層の上に建てられているのに気が付きます。偶然かもしれないし、大地の力が暴れないように本当に「重し」の役割を担っているのかもしれません。

 ある友人は「日本中、断層だらけのようなもの。大きなお寺や神社を造る時は、広い土地がいるから、結局どこかの断層に重なってしまうんだ。」と言っていました。そうかもしれません・・・

 名古屋も、いつ大きな地震がきてもおかしくない状況とか。慈雲寺の本堂は、建てられてから約100年。濃尾地震など、二回大きな地震を経験しています。今のところ、柱は、しっかり耐えているようですが・・・・う~ん。

◎今日の写真は光明寺の御本廟へ続く参道です。右の石碑に「圓光大師御本廟」とあるのは、法然上人の最初の大師号が「圓光」だからです。

 

「機根つたなくとも卑下すべからず」 善慧房証空上人の『鎮勧用心』より Part2

 ねむりて一夜をあかすも報佛修德のうちにあかし、さめて一日をくらすも、弥陀内証のうちに暮らす。機根つたなくとも卑下すべからず。佛に下根を摂する願います。行業とぼしくとも疑(うたご)うべからず、経に乃至十念の文あり。はげむもよろこばし、正行増進の故に。はげまざるもよろこばし、正因円満の故に。徒(いたず)らに機の善悪を論じて、佛の強縁を忘るること勿(なか)れ。不信につけても、いよいよ本願を信じ、懈怠につけても、ますます大悲を仰ぐべし。『鎮勧用心』

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  前回に続き、法然上人の最も円熟した宗教思想を直接受け継いだと言われる証空上人(西山上人)の『鎮勧用心』のお話しをいたします。

 この短い文章には、阿弥陀仏と私たちのご縁の深さ、阿弥陀仏の願いというものが繰り返し語られています。とりわけ「機根つたなくとも卑下すべからず」という文は、私の心に深く残ります。

 私たちは、しばしば自らの能力や環境を過大に評価して「自信過剰」や「うぬぼれ」に陥ったり、反対に過少に評価して「卑屈」になったり、「拗ねて」しまったりして、自分自身を傷つけてしまい、周囲の人にも影響を及ぼしてしまいます。

 自分をありのままに受け入れるのは、なかなかに難しいことです。さらには他人もありのままに受け入れて愛するのはさらに難しい。その上、自信過剰でも、自己評価が不当に低くても、努力を放棄してしまったら、人生はむなしいものになってしまうでしょう。

 阿弥陀仏は、何も条件をつけません。私たちを「この身このまま」で受け入れて下さるのです。ですから、能力や環境が劣っていても、卑下すべきではなく、むしろ「それだからこそ」阿弥陀仏は私たちに慈悲をそそいでくださっているのです。

 「この身このままの救い」を聞かせてもらったとき、嬉しさのあまり口からこぼれでるのが「南無阿弥陀仏」のお念仏です。念仏をするから救われるわけではありません。ここが肝心なところです。

 その喜びを原動力として、「自分のできることをできるだけやらせてもらおう」という努力が始まるのです。自力で努力するから救われるのではないのです。努力する偉さを阿弥陀仏に評価してもらって救ってもらうわけではないのです。

 阿弥陀仏に願われている身の上であるという自覚から、「できることをやらせてもらおう」という働きが生まれてくるのです。

 傲慢も卑下も、どちらも生きていく苦しみのもとですよね。

 力をいったん抜いて、阿弥陀様におまかせしてみましょう。

◎今日の写真は、大阪市東洋磁器美術館で見た古代中国の女人像です。

「機根つたなくとも卑下すべからず」 善慧房証空上人のお言葉 『鎮勧用心』より (Part1)

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 ねむりて一夜をあかすも報佛修德のうちにあかし、さめて一日をくらすも、弥陀内証のうちに暮らす。機根つたなくとも卑下すべからず。佛に下根を摂する願います。行業とぼしくとも疑(うたご)うべからず、経に乃至十念の文あり。はげむもよろこばし、正行増進の故に。はげまざるもよろこばし、正因円満の故に。徒(いたず)らに機の善悪を論じて、佛の強縁を忘るること勿(なか)れ。不信につけても、いよいよ本願を信じ、懈怠につけても、ますます大悲を仰ぐべし。『鎮勧用心』

 

 『鎮勧用心』は、法然源空上人(法然上人)の直弟子で、師のそばに最も長く仕えた善慧房証空上人(西山上人)が、自らの弟子に与えた念仏者として生きる者の日常の心がけについて短くまとめたものです。

 慈雲寺の属する浄土宗西山派西山浄土宗)は、法然上人を宗祖と仰ぎ、西山上人を流祖としています。この『鎮勧用心』は、西山派の僧侶も信徒も、毎朝のお勤めの時に必ず読誦して、日々の生き方の指針としています。

 短い文章の中に、阿弥陀仏に願われている私たちという自覚と喜び、そしてその自覚の上での生き方がギュッと凝縮されて示されています。柔らかな口調は、西山上人のお人柄、その温かみが直接伝わってきます。

 この文章の全ての言葉に深い意味がありますが、私が特に魅かれるのは「機根つたなくとも卑下すべからず。佛に下根を摂する願います。」という文です。

 機根とは、その人の性質や能力、そして環境を含む状況のことです。それが劣っているからといって、卑下すべきではない。阿弥陀様の御目当ては、まさにそうした「凡夫」なのだから・・・という教えです。

 阿弥陀仏は何の条件もつけずに私たちの全てを受け入れて下さっています。それを喜ぶのがお念仏です。(つづく)

◎今日の写真は根津美術館の庭園でみたカキツバタです。もう盛りを過ぎていて、ちょっと哀れな風情でした。

 

 

7月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は7月22日に行います。テーマは「‟自業自得”の本当の意味は?」です。

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 今日はとても爽やかな風が一日中吹いていましたね。今日は「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」の日でした。旦那寺と檀家の関係について、御一緒に学んでみました。皆さん、とても熱心に聞いて下さいました。

 「いきつけのお寺」、「顔なじみの和尚さん」というご縁を持つことで、より穏やかで苦しみ少ない生き方ができるようになるのが、仏教の理想です。

 さて、来月の講座のテーマは、「”自業自得”の本当の意味は?」にしてみました。「自業自得」とか、「業が深い」とかいう言葉は時々耳にしますね。いったい「業」とななんなのでしょう?「業」という考え方は、大乗仏教の大事な要素の一つであり、「輪廻」とか「供養」にも深く関連しています。

 「業」について、その基礎的な知識を御一緒に学んでみましょう。

 7月22日(日)10時より行います。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

◎今日の写真は、東京の根津美術館の庭園でみた道祖神です。