慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

YouTubeの「ゴミ屋敷の片付け」動画が気になる・・・

f:id:jiunji:20181010220406j:plain

 僧侶にとって、掃除は大切な修行の一つです。「一に掃除、二に掃除、三四がなくて、五に掃除」と言われるほど・・・特に尼寺は「いつも塵一つない美しい境内」のイメージを持たれる方が多いと思います・・・

 しかし・・・情けないことに私は片付けがとても苦手です。自室のありさまは、そこに住む人の心の中を表しているとも言われます。そうだとすると、私の心の中は、大変なことになっているようです。

 とはいえ、私は掃除が嫌いなわけではありません。むしろ、四六時中片付けをしていると言っても良いほどです。でも、自分の心の中をじっくり観察してみると、私にとって片付けは、何かから逃避したいときの行動のようです。

 Aということをしなければならない。でも、どうも気が進まない・・・などという時、私は「まず、机の周辺をすっきりさせてからAの作業を始めよう。片づけないと作業もはかどらないしね。」などと、たわけた事を自分に言い聞かせて、結局、その日は肝心の作業には取り掛からない。なんとも恥ずかしいことがしばしば起きるのです。

 最近、YouTubeで、いわいる「汚部屋」とか「ゴミ屋敷」と言われてる場所を、プロの清掃業者が片づけていくプロセスを動画に撮影したものを見るようになりました。最初は、片付かないといっても、私の部屋はまだそれほど悲惨ではない・・・と思いながら見ていたのですが、このままで行くと私も将来悲惨なことに・・・と恐ろしくなりました。

 この「ゴミ屋敷掃除動画」をいくつか見ているうちに、やはりプロの人たちには片

付けの技術をたくさん持っていることに気が付きました。やはり片付けには手順があり、コツがあるのですね。

 すぐにプロの方々のようなわけにはいかないでしょうが、私の部屋も何とか少しずつすっきりしてくるような気が・・・・。

◎今日の写真は、大阪市立陶磁器博物館で見た茶器の蓋です。小さな蓮の花の形がなんとも愛らしく見えました。綺麗に片付いた部屋で、こんな茶器でお茶をいただきたいものです。

 

嘘で友を裏切った人が落ちる地獄 ー 吼々処(くくしょ)

f:id:jiunji:20181008114034j:plain

 今月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」で地獄についてお話しようと思っているので、関連した本を読み返しています。

 地獄は、犯した罪悪によって非常に細かく分かれていて、それぞれ違う罰を受けることになっています。自らの行為の結果は、自らが受け止める・・・自業自得は仏教の基本的な考えですから、地獄もそのようになっているのです。

 例えば、吼々処(くくしょ)と呼ばれる地獄は、大切に育んで来た友人との信頼関係を裏切り、嘘をついた者や、恩人に対して嘘をついて裏切った者などが落ちるところです。その地獄の獄卒は、落ちてきた者の舌を引き出して毒を塗ります。舌はたちまち焼けただれて非常な苦痛に襲われるだけでなく、傷口に虫がたかって、さらに苦痛が増すことになります。

 仏教徒は「五戒」と呼ばれる五種類の戒めを守ることを生きる基盤としています。その中の一つに「不妄語戒」があります。これは「嘘をつくな」、「嘘をついて人を裏切るな」ということです。

 一方、「嘘も方便」というのも仏教に関連した言葉として、良く使われます。人間関係を円滑にするためとか、「人を傷つけないため」、「良かれと思って」・・・嘘をつくのも手段の一つだという意味です。しかし、これは本当でしょうか?確かに、正しいこと、正確なことをストレートに伝えることで、事態が悪化してしまうことはあるでしょう。思いやりのない言い方は、例え真実であっても人を傷つけることもあるでしょう。難しいところです。

 しかし、やはり嘘はそれ自体が毒となるのです。英国の作家、バーナード・ショーは「うそつきが受ける罰は、人に信じてもらえなくなることではない。他人を誰も信じられなくなることである。」と書いています。

 最近の加計学園などの事件を見ていると、嘘を重ねる人は、生きているうちから、「不信」という地獄にすでに落ちているように思えます。お金をいくら積んでも、その地獄から救われることはないでしょう。

◎今日の写真は大阪市立陶磁器博物館で見た12世紀の高麗の青磁茶碗です。

『往生要集』に出てくるホスピス(?!)のお話し

f:id:jiunji:20181006053646j:plain

 源信の著した『往生要集』を読み返しています。この本は、法然をはじめとする日本の浄土教の発展に大きな影響を及ぼしました。今月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」で地獄のお話しをするのですが、日本人の「地獄」に対するイメージも、この『往生要集』に深く影響を受けていると言って良いでしょう。

 源信の凄いところは、自分の主張の根拠となる仏典を「これでもか!」というほど細かく示しているおとです。源信が経蔵の中を走り回って典故を確認している様子が想像できて、ちょっと気の毒になるほどです。仏典に「検索」をかけれられる私たちはなんと幸せなことでしょう・・・いや、かえって勉強しなくなって駄目かな?

 さて、この『往生要集』の中には、さまざまなことが書かれているのですが、タイトルにもあるように、「お浄土へ往生させてもらうには、どうすれば良いのか?」というマニュアル本と言っても間違いではないでしょう。

 とりわけ臨終が近くなったときの「注意事項」が興味深いです。その注意事項の一つに、「病人の臨終が近づいたら、その人を別の場所に移して看取るのが望ましい」という指摘があります。

 なぜなら、その病人が普段住んでいるところにいると、愛着のある「私のもの」や「思い出のもの」がたくさんあるので、現世に執着する心がどうしても強まってしまうからだそうです。源信は、この世への執着から離れ、穏やかにお浄土に往生することを勧めているのです。

 病人を「無常院」と呼ばれる場所に移し、同じ信仰の仲間が看取ります。源信は、無常院に病人を移したら、その人の周囲を清潔に保ち、お香を絶やさず、花を飾るように勧めています。なんだか、ホスピスの話しをしているようですね。

 「信仰の友」に見送られ、阿弥陀仏に迎え取られる臨終は一つの理想です。慈雲寺がそういう場を提供できたらいいなぁ・・・

◎今日の写真は中村元先生が丁寧に解説した『往生要集』の入門書です。文庫本ですから、いつでもどこでも読めて、おすすめです。

五感をゆったり「観」じる

f:id:jiunji:20181003071552j:plain

 仏教の教えには、しばしば「観」という言葉が使われています。「観光」の観ですが、対象を正しく観察する仏教の実践的修行の一つです。最近、良く真言宗系のお寺で「阿字観体験」を行っていますが、これも梵字の「阿」の字を見つめながら心を集中していく瞑想法の一つです。

 末法の時代に生きる私たちは、瞑想をしようとしても、次々と妄想が沸き上がってきて、すぐに心を静めて集中することは難しいでしょう。

 しかし、日常生活の中で、さまざまなことに、いつもよりちょっと時間をかけて「観」じてみるのはいかがでしょう?

  例えば出勤や通学の時、家を出る時間を10分早めて、いつもよりゆっくり歩いてみるのです。駅までの途中の景色に目もくれず、焦って歩いていた(走っていた?)のをやめるだけで、一日が全く違うものになってきます。

 空の色に気が付く、ご近所の花に気が付く、知り合いの人とにこやかに挨拶をかわせる。目で見て、耳で聞いて、風や太陽の温かさを感じて・・・・見逃していたものの多さにきっとビックリすることでしょう。

 朝起きはどうも苦手というなら、ランチの時に会社の近所をちょっと散歩してみるのもおすすめです。

 やがて、自分の心の動きにも、しっかり目を向けることができるようになるでしょう・・。これも、仏教徒の生き方の知恵です。

◎今日の写真も大阪市立陶磁器博物館で見た鼻煙壺です。緑色のガラスがとても美しくて、しばらく見とれていました。

 

「課金地獄」を垣間見る

f:id:jiunji:20180930094833j:plain 伊勢湾台風並みの大型台風が近づいているそうですが、今、外は静かに細かい雨が降っているだけです。これが「嵐の前の静けさ」というものでしょうか?

 さて、10月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は10月21日に行いますが、テーマを「地獄って何?」にしたので、このところ『往生要集』などを読み直しています。

 地獄は今、ここにもある・・・とは良く聞く言葉ですが、現代ならではの地獄とはどんなものががあるかなぁ・・・と考えながらインターネットのニュースを見ていたら、ネットゲームの課金地獄という言葉を知りました。毎月、何万円もネットゲームの課金につぎ込んで、ついには借金で自己破産。食事もろくに取らないので、まさにネット廃人・・・という人もいるらしい。

 現実的なメリットが何もないのに、なぜそこまでお金をつぎ込んでしまうのか、とても不思議に思えました。そこで、ちょっとネットゲームなるものを覗いてみることにしました。複雑なRPGではなく、子供向けと思えるような単純なゲームです。

 しかし!その巧妙な仕組みにビックリ!「無料」でゲームをダウンロードして、始めたのですが、アッという間に、自分の「地位」が上がっていきます。得点によって順位が明確に示されます。本当にリストに掲載されている人がいて、現実にゲームの参加者がいるかどうかも怪しい。でも、いったん「貴方が一位!」などと褒められると、つい、その位置をキープしたくなる気持ちは良くわかります。

 すぐに上位まで登るのですが、それを保持しようと思えば、お金をはらって便利な道具や武器を手に入れなければならない。さらに巧妙なことに、最初の道具は「今なら120円でこんなに便利な道具があなたのものに!」

 地獄の入り口ですね。

 ま、ゲーム自体は単純でぼんやりしたいときに楽しめそう。課金をしないと、高いステージに進めず、いつまでも足踏みですが、それでも今のところ楽しい。足踏みに飽きたら、もうそのゲームともお別れです・・・って、ならずに、120円から借金地獄へ真っ逆さまの人も多いのでしょう。

 しかし、人を誘い込むテクニックというものは恐ろしいものですね。地位や名誉は、たとえそれが、まったくの仮想空間のものであってさえ、大きな力をもっていると思い知りました。くわばらくわばら

◎今日の写真も、大阪市立陶磁器博物館で見た鼻煙壺です。これは瑪瑙でできているようです。

 

彼岸明けの日に「布施行」について考えてみましょう。Part2

f:id:jiunji:20180928214215j:plain

 前回のエントリーに続き、「布施」について考えてみました。

 

 「布施」は、仏教の修行の基本である六種類の行「六波羅蜜」の一つです。布施は「お恵み」とは根本的に違うと、前回書きました。

 例えば、Aさんが自分のケーキを半分、「これ食べなさい」とBさんにあげたら、これは「お恵み」です。Bさんは当然、「どうもありがとう」とお礼をいうことでしょう。

 これが、Aさんが「ケーキがあるんだけど、一緒に食べてください。」とお願いして、Bさんと二人で、楽しい会話をしながら分け合って食べたとします。Aさんは、ほかの人に分けてあげられるだけのケーキをもっていたことを喜び、Bさんと楽しいひと時が持てたことを嬉しく思います。

 これは「ケーキをあげる」というのとは大分違いますね。Aさんは、Bさんに「付き合ってくれてありがとう。」とお礼を言うかもしれません。

 ケーキは二人で分け合って食べた方が絶対においしいですよ!

 

 「布施」と「お恵み」の違いは、他の人のためになることをさせてもらった喜びを味わい、それによって心が豊かになることを楽しむのです。ですから、布施が「喜捨」、喜んで捨てるといわれるのはこのためです。

 ですから、仏様やお寺へのご供養のための布施は、喜んで捨てられるだけ目いっぱいして下さい。見栄や「他の人がこのぐらいするから」といったような、理由で金額を決めるのではなく、「布施行」として自分の心に正直になさると良いでしょう。

 お布施を「料金」と受け止めていると、「布施行」の喜びは味わえないでしょう。

 

 「布施」は、物や金銭だけではありません。「和顔愛語」は、仏教徒として歩むものの生きがいの一つです。柔らかで、やさしい表情、笑顔を人に向ける。そして優しさと思いやりに満ちた言葉を語る・・・・これも大切は「布施」の修行なのです。

 朝起きたら、鏡に向かってニッコリ笑ってみませんか?今日一日の命をいただいた喜びでニッコリすることからスタートしましょう。笑顔の人には、良いことがたくさんやってきます!

◎今日の写真も前回と同じく、大阪市立陶磁器博物館で見た、鼻煙壺です。これは白玉(ハクギョク)で作られた壺のようです。ヒスイやメノウで作られたものも見たことがあります。

彼岸明けの日に「布施行」について考えてみましょう。Part1

f:id:jiunji:20180926110319j:plain

 秋のお彼岸も今日で終わりです。秋分の日をお中日として、その前後三日間ずつ、合計七日間にわたって、仏様の教え、お慈悲を感謝し、ご先祖の供養を行う、日本独自の宗教的慣習です。

 この期間中には、娑婆(此岸)からお浄土(彼岸)へ渡るための、六波羅蜜と呼ばれる六つの修行について、思いを深めることを勧められています。どの修行も、末法の世に生きる凡夫の私たちには、なかなか困難なことばかりです。しかし、困難とあきらめず、仏様への感謝の表現として、できる範囲でさせてもらおうという気持ちが大切です。

 六波羅蜜の中でも、布施行という修行は、いますぐにでも出来る修行です。仏教においては、「布施」はとても大切な思想です。

 布施とは、人にさまざまなものを施すことです。差し上げることです。「もの」と言っても財物や金銭だけではありません。思いやりのある言葉をかけることも、柔らかな笑顔を向けること、電車で座席をゆずることも、皆、「布施」なのです。

 心すべきなのは、「布施」は「お恵み」とは根本的に違うということです。

 「お恵み」は、貰った人がお礼を言わなければいけない行いです。

 しかし、「布施」は、施した方の人が、「布施行をする機会を与えてくださってありがとう。」と感謝する行いなのです。

 例えば、僧侶にとって仏教の教えを説くことは「法施」といって、布施の一つなのです。ですから、お説教を聞きに来てくださる方々には、深く感謝しなければなりません。もし、偉そうに「教えてやる」などという態度の僧侶がいたら、それは明らかに間違った態度なのです。 (Part2 につづく)

◎今日の写真は、大阪市立陶磁器博物館に所蔵されている、鼻煙壺です。嗅ぎたばこを入れておく小さな壺で、いろいろな素材を使って、細緻な模様が描かれているものが多いのです。私は嗅ぎたばこのことは全く知りませんが、この種の壺は大好きで、いろいろな美術館で眺めるのを楽しみにしています。