慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

出家を考えて下さっている方へ Part2 - 私の場合 -

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 上の写真は知多半島東海市にある聚楽園の大仏様です。高さは約19メートル。奈良の大仏様より大きい!お参りすると視線がぴったり合って、なんだか癒される仏様です。名古屋周辺には、いくつも大仏さまがおられるので、外出自粛が緩んだら、大仏参拝めぐりをしてみたいと思います。

 

 さて、出家を考えて下さっている方にお伝えしたいことのPart2です。ある方から、「慈雲寺さんが、どういうプロセスで出家したのか知りたい」という質問を受けました。出家のプロセスは人それぞれなので、私の体験がどれほどお役に立つかわかりませんが、少しお話しさせていただきます。

 私の父は戦争の悲惨な体験から、「神も仏もない」ときっぱり言う人でした。歴史的な建物を訪ねるのは好きだったので、私たちをつれていろいろな社寺を訪れたりしましたが、けして手を合わせることはありませんでした。歴史遺物として興味があるというだけのようです。一方、母は自分の信仰を持っているわけではありませんでしたが、宗教的なものへの敬意も興味ももっていて、宗教的なものに触れるのは良いことだと考えているようでした。私がキリスト教会の日曜学校に行くことにも反対しませんでした。

 父方の祖母は熱心な法華経系の新宗教の信者でした。父の実家は曹洞宗でしたので、法事や葬儀は菩提寺に行くという変則的なお付き合いでした。母方の祖母は、とても現実的な人で、浄土真宗のお仏壇は大切にしていましたが、お寺にお説教を聴きに行くということはなかったようです。

 こうした環境で育った私は、「人間の活動としての宗教」というものに興味がありました。世界で起きる紛争のほとんどが、宗教がらみなことに特に興味を覚えたのです。高校も大学もキリスト教系でしたが、これは入った学校がたまたまそうだったというだけです。しかし、宗教の時間は面白いと思っていました。

 大学は法律学科だったのですが、法哲学と法制史などの基礎法学を専攻し、卒論は古代の土地法についてでした。古代の法律は宗教と区別が難しいほど密接な関係がありますから、大学院へ行くときは宗教学科へ進み、比較宗教哲学史を専攻しました。

 大学院では、人間が「この世の終わり」というものを歴史的にどう考えていたのかを中心に研究しました。世界のさまざまな宗教が「終末」をどう考えていたのかに興味があったのです。仏教では「末法思想」や「弥勒下生」について研究しましたが、それほど深く学んだわけではもちろんありません。終末論では、やはりユダヤ教キリスト教の方が面白かったからです。

 カナダの大学院生活は、とても快適なものでした。外国人にもとても親切な環境で、奨学金の申請などでも差別はありませんでした。十分な研究費と奨学金、そして助手の仕事までいただいていました。日本の大学院生にありがちだと聞く、「指導教授のお手手伝い」はほとんど無し。

 しかし、そのような恵まれた環境でも、私がたどりついた結論は「自分は研究者に向いていない」という情けない現実でした。単に怠け者だっただけなのですが・・・・(つづく)

 

 

出家を考えて下さっている方へ Part1

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 上の写真は、今朝、ネットで見つけた冥王星の写真です。不思議な色ですね。GWの間、操業を停止していた工場が多かったせいなのか、今週になってとても夜空がきれいに見えます。

 慈雲寺では、毎月の満月の夜にお月見を兼ねた写経の会を行ってきました。新型コロナ肺炎の問題が広がってからお休みしていますが、毎回、それほどたくさんの方がおいでになるわけではないので、来月ぐらいから復活しようか・・・と、検討中です。しかし、この緩みが病気克服の妨げになるようでは困るので、思案中です。

 なお、慈雲寺の本堂には、いつでも写経をしていただける用意があります。他の人と出会う確率は低い(笑)ですから、どうぞお気軽においでください。

 

 さて、昨日も「新聞記事を読みました。出家をしたい。」という嬉しいお電話をいただきました。すぐにも会ってお話したいところですが、遠くにお住まいとのことでしたので、しばらくはそれもかなわないでしょう。

 出家を考えているとお電話下さったり、慈雲寺を訪ねて下さるのは、いつでも大歓迎です。しかし、このブログでも何度もお話していますが、同じ「出家」と言っても、日本にも、世界にもたくさんの宗派があり、それぞれ修行の仕方、歩む道のアプローチが違います。

 日本の多くの僧侶は、お寺に生まれ、父親を師僧として出家します。宗派を選ぶことはほぼ不可能です。多くの僧侶は、真摯であればあるだけ苦悩します。自分の信仰の在り方に悩む人も少なくありません。

 しかし、在家から僧侶を志す方は、きっかけを見つけるのは大変でしょうが、自分で仏の教えへのアプローチを選べるという大きな利点があります。お釈迦様は、教えを説くときにたくさんのアプローチの仕方をしました。これを「対機説法」と言います。教えを聞く人の能力、性質、環境などに合わせて、お釈迦様は説き方を変えていたのです。

 ですから、仏教にはたくさんのアプローチ、修行の方法があって当然なのです。出家を考えるとき、自分はどの教えがしっくりくるのか知っておくのは大事なことだと思います。

 本を読むのも一つの方法ですし、お寺で行われる座禅の会や法話の会に行ってみるのも良いでしょう。僧侶は、その人が属している宗派の教えにしたがって生きているはずなので、信頼できる僧侶に出会えるかどうかも「縁」ということになります。

 在家の人が僧侶になるためには、師僧となってくれる人を見つけなければなりません。ここが難しいところです。しかし、各宗派には僧侶の養成所のようなものがあり、在家からそこの入ることができるところもあるようです。(つづく)

 

 

慈雲寺の仏教講座について

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 このところ、毎日数人の方から「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」についてのお問合せをいただいています。仏教について関心を持って下さる方がいることを知って、本当に嬉しく思っています。

 「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、慈雲寺に赴任して半年後から毎月一回休みなく行ってきました。しかし、新型コロナ肺炎の問題が起きてから、中止を余儀なくさせられている状況です。

 いつでも隙間風がビュービューと吹き抜けている慈雲寺の本堂ですし、密集状態になるほどたくさんの方においでいただいているわけでもないので、そのまま続けようかと悩んだのですが、外出自粛要請が出たことと、聞きに来てくださる方の多くが公共交通を利用していることを考えて、3月から中止に踏み切りました。

 今月末の時点でどのような状況になるか、まだ予測はつきませんが、外出自粛要請が緩められるようであれば、6月下旬から講座を再開しようと考えています。

 講座の再開が決まりましたら、このブログでお知らせいたしますので、ブログのページの一番上に時々注目していただければと思います。また、中日新聞の火曜日の文化欄(宗教欄)に、お寺や教会の行事の告知欄があります。そこにも掲載をお願いしますので、チェックしていただければと思います。

 

◎現在、毎朝7時半より、『般若心経』の読誦を中心にした短い法要(15分程度)を行っています。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加下さい。

 

◎本堂は昼間いつでも自由にお参りいただけます。写経や写仏の用意もしていますので、ご自由にお使いください。

 必要でしたら、写経や写仏についてご説明いたしますので、庫裏までお声がけください。

 

◎ご先祖の御供養をはじめとする仏事や、そのほかのことでご相談のある方は、ご遠慮なくお声がけください。電話052-621-4045

 

こんな時だからこそ、仏教を学んでみましょう。 part6 釈迦の出家の動機(その2)

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 昨年、京都東山の永観堂で見た新緑です。今は訪れる人も少ないでしょうが、昨年と変わらず美しい影を作っていることでしょう。

 さて、あまり出歩かないなった今だからこそ、仏教の基本にたちかえって学び直そうと本を開いています。まずはお釈迦様の御生涯から・・・と思い、少しずつ伝記のようなものを読んでいます。

 お釈迦様が物質的には何一つ不自由ない生活を送りながらも、出家を決意されたのはなぜでしょうか?それは、生きることの本質的な「苦」に気が付いてしまったからです。お釈迦様の父親、浄飯王は、息子に世界の、命の本質を見せないようにずいぶん苦労したそうで、枯れた花さえも釈迦の目に触れないようにしていたのだそうです。

 今の私たちも、「死」を身近で体験することはとても少ないのではないでしょうか?父王が釈迦の目を塞ごうとしたように、私たちも人間の命の真実から目をそらされているのです。

 以前なら、二世代、三世代が同居しているような家では、家族の「臨終」に立ち会う経験は今より遥かに多かったでしょう。通夜や葬儀には遠い親戚も、ご近所の人々も、友人、同僚などもたくさん参列しましたから、子どもたちも成長の過程で、人の死に直面する経験を今とはくらべものにならないほど重ねていたことでしょう。

 今、人の死は、テレビやパソコンの画面の向こうのことで、いくら見てもリアルな「体験」にはなかなかなりません。そうした経験が少なく、命のありよう、真実の姿に目を背けていると、今回の新型コロナのように、急激に社会に変化が起きると、死の恐怖に圧倒されてしまいかねません。

 仏教は、こういうときに、落ち着いて状況を把握し、不安に心が必要以上に揺さぶられないための教えです。「死」を、「生きる」ことをきちんと見つめる勇気を養う教えです。

 下にご紹介するのは、昨日のネットのニュースの記事です。大学の学長という立場の人たちがどのような発言をしているか、とても興味深いので、ご紹介します。だたし、ここに引用されているのは発言の一部。恣意的に切り取られているかもしれないので、そのまま受け止めてしまうのは・・・難しいところです。

 

www.msn.com

家族の知っている故人の姿が全てではありません

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 先日、ある方の葬儀に参列しました。外出自粛要請が出されようとしていた時期だったので、ご家族の方はあまり広範囲にお知らせをしなかったのですが、故人のMさんは、多くの人々に敬愛されていた方だったので式場にはたくさんの供花が並べられていました。

 新型肺炎のことが深刻になる以前から、いわゆる「家族葬」と呼ばれる形式の葬儀は増えてきていました。昔から、ごく近しい親族だけで行う「密葬」というものはあったわけですが、「密葬」というと何やらわけありな響きです。状況はほとんど変わらないですが、「家族葬」と言い換えると、そのわけあり感はだいぶ薄れますね。

 家族だけで静かに見送りたいという気持ちは私にも容易に想像できます。しかし、私は数年前に実父送ったときから、少し考えが変わってきました。

 父は生前、献体の手続きをしていましたから、臨終から遺体を大学病院の方に引き渡すまで、私が枕経を行いましたが、いわゆる葬儀はしませんでした。

 しかし、父の死を父の友人や知人にお知らせすると、多くの方から「お別れがしたかった」とお手紙やお電話をいただきました。ほとんどの方が、驚くほど詳しく、父との思いでを綴って下さいました。

 そこには、「父親」としての父の姿ではなく、会社の上司として、同僚として、取引先として、趣味の仲間として、戦友としての父の姿がありました。私が全く知らなかった父の姿です。

 家族が知っている「人の姿」は、一面でしかありません。いや、父として、夫として、祖父として・・・それぞれ違うはずです。

 葬儀、とりわけ通夜に集った人々が、それぞれの思い出を語ってくれたら、残された遺族は、故人をさまざまな面を持った「立体としての人間」として深く心に刻むことができるのではないでしょうか。

 

 

仏花を自分で選んでみましょう

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 上の写真のハイビスカスはエクアドルで出会ったものですが、慈雲寺のハイビスカスにようやく新芽が出てきました。ご近所の鉢植えは、どこも青葉がたくさん出ていたので、心配していました。
 今日も「新聞の記事を見て、ここにお寺があることに気が付いた」という方がお参りに来て下さいました。こんな風にご縁が広がるのはとても嬉しいことです。

 人間の目というものは不思議ですね。見ていても見えないことがしばしばあるのですね。自分に関係がないと思っている間は、目の前にあっても見えない。ご縁が結ばれるととたんに見えてくるのですね。

 阿弥陀様のお救いも、もう遥か昔から私たちは救われているのに、私たちはそっぽを向いたまま輪廻を繰り返してきたのです。今生で阿弥陀様、お釈迦様にご縁が結ばれて本当に良かった!

 

 さて、今日、初めて慈雲寺にお参りに来て下さった方から、「花屋さんで『仏花』として売られているもの以外の花をお供えしてはいけないのでしょうか?」という質問を受けました。花屋さんでは、色合いや値段(?)を考慮して、仏花らしいものをまとめて束にしてくれていますから、それを買ってきてお供えするのは便利で無難ですね。

 しかし、大事なのは「仏様、ご先祖さまにお花を手向けたい」という気持ちです。一度、ご自分の好きな花を選んでお供えしてみませんか?バラの花はどうでしょう?

 自分の素直な気持ちを形にして、仏様やご先祖様と一緒に楽しんでみるのも良いと思います。

 自分の庭に咲いた花もいいですね。

今の言葉、今のメールが「遺言」に・・・・

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 先日、中学時代の友人とメールでやり取りをしていたら、急に「新型コロナは劇的に症状が悪化することもあるらしい。どのメールもこれが最後の言葉と思って、ちゃんと書かなければいけないという気持ちになる」と書いてきました。

 心優しい友人は、いろいろと考えることがあるのでしょう。

 しかし、私たちの命は、いつでもとても危ういものです。心無い言葉を投げつけて別れたら、それが今生での最後のやりとりになった・・・という経験は誰にでも起こりうることです。年齢とは関係なく・・・

 災害や事故、心臓麻痺や脳溢血など、私たちはいつでも「明日をも知れぬ身」なのです。そのことに怯えたり、悲しんだりするのではなく、「あやうい命だからこそ、大切にする。十分に楽しむ、慈しむ」ための勇気を養うのが仏教の修行です。

 例えば布施という修行ですが、金銭や物での布施も、執着を離れるという意味でとても大切です。しかし、「和顔愛語」、穏やかな表情で、慈しみ、思いやりのこもった言葉を語るのも、大切な布施行なのです。

 「さようなら」、「行ってらっしゃい」などを言うときは、特に心をこめて言いましょう。それが今生での最後の言葉になる可能性はいつでもあるからです。

 メール、特にラインでは、感情に任せて、心無い言葉を投げつけてしまいがちです。それが「遺言」になってしまう可能性もあるのです。

 自分の思いを十分に伝えられるよう、語彙と表現力を養いましょう。なにより、思いやりのある、慈愛に満ちた人間になれるように、少しずつでも仏様の教えを学んでいきましょう。

 家にいる時間が長いなら、本を読んでみませんか?本の世界は広々として、ゆっくり翼を広げて飛び回ることができますよ。

 

◎今日の写真は、ご近所で見たヴォーリズ風の建築です。私はこんな風な、和製洋館が大好き。市の文化遺産として大切にしてもらいたいものです。