慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

3月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は3月17日(日)10時より、お彼岸の法要も兼ねて行います。テーマは「法然上人が開いた『浄土門』とは何だったのか?その2」です。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

廃屋と化す寺院の記事を読んで

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 今朝、中日新聞の社会面を開いたら、いきなり胸がつぶれそうになりました。住職の跡継ぎが見つからず、廃屋になっている寺院の大きな写真が出ていたのです。記事によれば、「住職のいない寺」は全寺院の二割にもなるそうです。地域によっては二割では済まないのでは?

 一つの寺院の住職が、住職不在になった別のお寺の住職を「兼務」することもめずらしくありません。いったん兼務寺院になってしまえば、普段住職がいないお寺の方が衰退していくのは避けられないでしょう。さらに、以前、このブログにも何回か書きましたが、女性が発心しても出家の道がなかなか開けない現状では、尼僧寺院の跡継ぎ問題はさらに深刻です。つい最近も、尼僧を育てる寺として有名だった尼寺のご住職が跡継ぎのないまま亡くなり、別のお寺の男性のご住職が兼務することになりました。尾張三河に江戸時代から続いていた尼僧寺院の伝統の灯りが一つ消えたのです。

 都市への人口集中で過疎地となっている場所のお寺もあるでしょう。自分の家の旦那寺も知らないという人も増えています。仏教徒のご縁はお葬式の時だけ、それも格安の僧侶派遣に頼んで、その後のつながりはなし。法事も三回忌まで勤めれば、次のことは知らずじまい・・・・ 寺院が廃屋となるにはさまざまな理由があるでしょうが、寺院側、僧侶の側に大きな問題があると私は思っています。寺院や僧侶にとって、檀信徒のご先祖の御供養や大切な役割ですが、それ以上に、宗教には「いかに苦しみ少なく、穏やかに生きていくか」という、生きる智慧としての役割があります。お寺は生きているうちにご縁を深めていただくのが最重要。葬式や法事はその延長上にあるものです。

 僧侶にとって、弟子を育てるのは大切な修行の一つ。自分の子供に「押し付ける」ようなものではありません。とりわけ尼僧寺院は、尼僧として生きることの喜びをもっと知ってもらうように努力すべきだと思います。

 このことは私にも他人事ではありません。私の尼僧としての暮らしぶり、生き方を見て、「お坊さんとして生きてみたい」と思う人が出てくるように精進しなければいけませんね。う~~~ん・・・難しいなぁ。

◎今日の写真は京都の寺町で見たマニ車です。この車を回すとお経を読んだのと同じ功徳があるとか・・・・怠け者の私にぴったり??