慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

3月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は3月17日(日)10時より、お彼岸の法要も兼ねて行います。テーマは「法然上人が開いた『浄土門』とは何だったのか?その2」です。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

お葬式は「迷惑」か? 家族葬を考える Part1

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 先日、お寺の門前を掃除していたら慈雲寺の墓地にお墓を持っていらっしゃるSさんが私に何か話したそうにモジモジしていました。「中でお茶でもどうですか?」とすすめても遠慮なさいます。そこでお日様が当たっている陽だまりに移動して立ち話。

 「私もそろそろお迎えが来そうなんだけど」と話始めるSさん。普段はニコニコ元気でまだ当分お迎えは来ないと思いますけど・・・・何があったのかしら?

「で、葬式に皆に来てもらうのは迷惑かけるで、家族葬にしてもらえるように葬儀会館の会員になろうと思ってるんだ。その葬式には、庵主様、一人で来てくださるかね?」

 う~~ん・・・お葬式に呼んでくださるのはありがたいし、心をこめて送らせいただくけれど、なんかひっかかるなぁ。お葬式は“迷惑”なの?残される家族に経済的な負担がかかるから?義理で参列しなくちゃならない人がいるから?う~ん、そうなのかなぁ?

 私がカナダで過ごした数十年の間に、何度かキリスト教のお葬式に参列したことがあります。私はカナダと日本を比べて、どちらが良いとか考えることはめったにありません。カナダにも日本にも、プラス面もマイナス面もありますし、国や風土の違いが大きいので比べるのにも無理があるからです。しかし、カナダのお葬式ななかなかいいなぁと思ったことが何度もありました。

 たとえば、葬儀の時には弔辞を読んだり、神父さんや牧師さんのお説教などが終わった後、だれでも前へ出て亡くなられた方との関係や思い出について短いスピーチをして良いのです。ユーモアのあるエピソードのときは遠慮なく笑い声もでます。

 ある少年は「僕は新聞配達です。亡くなられたジョンさんには、いつも新聞を丁寧に扱えと怒られました。苦手だなぁと思っていたのですが、クリスマスにはおこずかいと僕に読ませたいと吟味した本をくださいました。ジョンさんにもう叱ってもらえないと思うとさみしいです。」と語りました。

 ジョンさんがいつも給油するスタンドの人とか、食堂のおばちゃん、会社の上司、ゴルフ仲間、次々と思いでを語る人が前に出てきます。残された家族は、夫としての、また父としてのジョンさんだけではなく、彼のさまざまな側面を知ることになり、思い出がより立体的で深いものになります。

 人の人生は家族が知るより、もっとずっと広く複雑なのです。亡くなった方を偲んでいるのは家族ばかりではありません。葬儀はより広い範囲の人々にお別れの場を手作り、思いでを深める場であり、哀しみの心を整理する機会でもあります。

 家族葬を選ぶ理由はさまざまですが、葬儀は多くの人にとってけして「迷惑」ではないはずです。亡くなった方を忘れないことが何よりの供養。葬儀はそのためのものでありたいですね。

・今日の写真はカナダの西海岸で見た花です。なんという名前かしりませんが、薄紫と青のまじったような心に残る姿です。