慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

10月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、10月29日(日曜)10時より行います。テーマは「末法の時代に生きる」です。どなたでもお気軽にご参加ください。

自宅介護の「美談」化を考える

 

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 今日、法事へ出かける途中に『朝日新聞』を購入しました。なんとなく「呼ばれて」いるような気がしたのです。すると、以前から気になっていた自宅介護の問題について興味深い記事がいくつか出ていました。本当に新聞に呼ばれてしまったらしいです。

 社会面に大きく出ていたのが、認知症を発症し、重い心臓病も抱えた妻の介護を自宅で行うことに決めた男性の話でした。その男性が自宅介護を決意したきっかけとなったのは「ある朝、男性が面会に行くと、妻はナースステーションの横に置かれた車いすに座らされ、体をベルトで止められていた。」という体験のようでした。この男性と薬剤師の長女(45)は、「何があっても、できれば自宅でみとりたい」と決意することになります。

 記事のタイトルは「迷い 妻の心に耳澄ます」とあります。この御家族の決意は敬意を感じずにはいられませんし、さまざまなご苦労を思うと深く同情の気持ちがわいてきました。しかし、記事を読んで何か大切なことが述べられていないと感じました。男性とその娘(おそらく独身の)の精神的、肉体的負担はどうだったのでしょう?さまざまな困難な状況が続いたことは書かれていても、家族がどのような犠牲を払ったのか、娘さんは仕事を続けることができたのか、夫は十分な睡眠をとることができたのか、妻が亡くなった後、家族は心身ともに健康なのか・・・などなど、疑問はたくさんわいてきます。

 先日、慈雲寺に相談に見えた方は、「両親の介護が私(独身の娘)独りにかかってきて、もう自分が死んでしまいたいと思った」と語っていました。その方は仕事をしながら、精いっぱい介護していらしたのですが、睡眠不足とストレスで、ふと「早くこの状態が終わってくれれば良いのに」と両親の死を願ってしまい、激しい自己嫌悪に襲われたといいます。

 お釈迦さまは、親を敬い、大切にすることは素晴らしい善行だと教えてくださっています。しかし、自宅介護を「義務」や「美談」だけで進めていくのは、けして良い結果を生まないでしょう。介護をする側の心身の健康も大切だからです。

 同じ今日の新聞の読者投稿欄に「認知症 介護者の疲弊理解して」というタイトルを付けられた投書が載っていました。投稿者は介護の仕事に携わっている方のようで「徘徊や転倒リスクの高い高齢者の事故を防止するため、車いすやベッドにベルトなどで固定する『身体拘束』は悪者にされがちです。しかし、高齢者の安全確保と介護者の負担軽減を考え、認識を改めるべきではないでしょうか」と述べている。日々、厳しい現状と向き合っている人の言葉だ。そして「認知症の方々の『尊厳』に縛られて、介護者が疲弊する構図は見直す時期だとおもいます。」と結んでいます。

 これを「都合の良い言い訳」とみることもできるでしょうが、「介護者の疲弊」という言葉には重い現実が映し出されています。

 朝日新聞がこの二つの記事を同じ日に掲載したというのは、なんらかの意図があるのでしょうか?それも気になるところです。

 仏教では「生老病死」という現実を認識することが信仰のだ一歩です。老いも死も避けられないという認識をしっかりすることから、信仰の道が開けてくるのです。

◎今日の写真はカナダのバンクーバーにあるセメント工場です。今日は重いテーマだったので、バンクーバーののんびりした青空が懐かしくなりました。