今朝の新聞の一面は、愛知県大府市で起きた認知症患者の老人が徘徊中に電車に跳ねられた事件で、家族のJR東海への賠償責任はないという最高裁の判断が出たという記事でした。
事件が起きた共和の駅は慈雲寺の近くですし、とても興味深く裁判の進展見ていました。下級審では家族の賠償責任を問う判断を出しているので、最高裁が「家族に責任なし」という判決をしたことに、実を言えば驚いています。多くの場合、日本では下級審の方が現実に対して柔軟な判断をすることが多い印象があったからです。
もちろん、今回の場合、家族に24時間365日の監督責任を問うのは酷と言うものでしょう。とても気の毒な状況であるのも理解できました。しかし、JR東海側の損失も小さくはありません。これで列車の乗客側にけが人や死者が出るような事故だったらどうなのでしょうか?
また、この判決が「判例」となって、他の裁判にも影響を及ぼしていくわけですから、介護のネグレクトにつながる可能性もあるでしょう。この裁判は極めて難しい問題の扉を開くものだと思います。
「介護に苦労している家族を救済する判決」というだけでは済まないはずです。
私は「介護は家族がするもの」という「常識」そのものに疑問を持っています。そうした常識が機能するためには、①大家族が一緒に住み、介護の人手が充分にあること ②夫が終身雇用の職場にいて雇用がきわめて安定している ③夫の収入だけで十分に家族全員が暮らせる。つまり妻が専業主婦ができる ④介護をするためのスペース(部屋)が確保できる・・・などの数多くの条件が充分に満たされていることが必要でしょう。
現在の状況では、夫の雇用はけして安定しているとは言えず、夫婦で働かないと家族の生活を支えられず、家の中に専門の介護スペースを確保しにくい、妻や独身の娘の肩に全てがのしかかっている・・・などという状況では、家庭での介護は常に危うい状況なのではないでしょうか。
つづく
◎今日の写真は、カナダの西海岸の先住民が海岸の絶壁に描いが岩絵です。二千年ほど前のものと考えられています。