前回のブログで、認知症の老人が徘徊中に電車にはねられて死亡した事件で、家族に賠償世金を問わないという最高裁の判決の報道を読んで考えたことの続きです。
社会の状況や家族の在り方、経済、寿命の長さ、居住状況などなど、さまざまなことが大きく変化しているのに、かつてのような「家族が介護する」という「常識」や「理想」が変化しないわけがありません。
もちろん、老人が尊敬されて生き生きと暮らし、その智慧が家庭や地域で生かされている社会こそ私たち仏教徒が目指すべきものです。しかし、それが家族の過重な負担を強いるものであってはならないでしょう。
まず、シニアの人たちが可能な限り自立して暮らせるようなサポートシステムが大切だと思います。私は僧侶としては全く未熟ですが、「あそこの庵主さんは独り暮らしだけど、阿弥陀さまと一緒にいるから、いつもニコニコしているなぁ。あれなら独り暮らしも悪くないね。」と言ってもらえるようになりたいと考えています。
お釈迦さまは仏教徒は「犀の角のごとく独りで歩め」と教えてくださっています。僧侶は体を大事にし、信仰をたよりに、ゆったりと独りで歩んで行くのが理想なのです。
家族による介護を理想とするなら、サポートシステムの整備と充実がなにより大切です。介護する側の人々の心身の健康も重要です。また訪問介護をする介護士やヘルパーさんたちが充分な報酬を得て、トレーニングもしっかり行われる環境作りも不可欠でしょう。しかし、そのコストはどうやって生み出していけばよいのでしょうか?カナダは高税金・高福祉の道を選びましたが、日本はどうしていくべきなのでしょう。
皆さんの心豊たかな暮らしに役に立つ慈雲寺であるために、僧侶としてどうあるべきか・・・なかなか思いがまとまりません。
◎今日の写真は大阪の四天王寺で見たしだれ梅です。慈雲寺は白梅がきれいに咲いています。紅梅の方は遅咲きなので、まだつぼみが色づたばかりです。