今日はどんよりした曇り空でした。今年のお彼岸は尼僧様の葬儀があったり、古くからの友人に助けられて溜まりに溜まっていた寺務処理をしたり、たくさんのお参りの方々とお会いしたりと、毎日いろいろな思いが心を行き来した日々でした。
彼岸に入ってからは、毎朝のお勤めの時にお彼岸の供養をさせていただきました。今、彼岸の極楽で菩薩としての修行に励んでいらっしゃるご先祖さま方を思うと、より丁寧に御供養させていただかなければと思います。
季節が変わる時期に、一週間にわたって「此岸(現世)」と「彼岸(極楽)」について改めて考える宗教行事があるというのは、日本の美しい文化の表れだと思います。しかし、今回も気になったのは、お墓参りに来る方々のほとんどが、本堂へお参りせずに通り過ぎていくことです。寺門のところから、手を合わせるかたは少しいらっしゃいましたが、多くの方が「お寺とお墓参りは別もの」と考えているようです。
これは、とても哀しいことですし、私が慈雲寺の住職として、みなさまに理解していただく努力が足りないということでもあります。公共の墓地ではなく、寺院に付属している墓地いお墓を持ち、お墓参りに行くということは、なによりもまず「宗教的な行い」なのだといいうことを皆様にお知らせし、心にとめていただけるようにするのは、住職である私の責任だと思うからです。
墓地へ行く前に、本堂へお参りし、阿弥陀様に手を合わせて心を安らかにし、それからお墓にお参りするのが、本来の「墓参」です。阿弥陀仏と共に極楽にいる祖先を思い、今を大切に生きることを改めて仏さまと祖先に誓うことが、お墓参りの大きな「功徳」と言ってよいでしょう。
できれば、十分に時間をとって本堂でゆったりとした時間を過ごしてみてください。墓参がより意義深いものに感じられることでしょう。
お彼岸やお盆などは、お墓参りのよいきっかけにはなりますが、実は「行きたいと思った日」が一番良い日なのです。うれしいことがあったとき、心が苦しくてつらい時、お寺にいらしてください。きっと、お墓参りがより意味のあるものに感じられるでしょう。
本堂にはいつでもお茶を用意していますので、一服なさってください。お気軽に住職にお声をかけてください。一緒にお茶を楽しみながらお話ししましょう。
また、お墓での読経をご希望でしたら、こちらもぜひお気軽にお声をおかけください。
◎今日の写真は、コロンビアのカリの街角で見た壁絵です。南米のあちこちで巨大は壁絵を見ました。色は鮮やかですが、人物の表情はなんとなく哀しい。南米の抱える悩みを表しているのでしょうか?