慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

10月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、10月29日(日曜)10時より行います。テーマは「末法の時代に生きる」です。どなたでもお気軽にご参加ください。

お念仏には何も足さなくてもいい。(Part 1)

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 来週、慈雲寺が属する浄土宗西山派西山浄土宗)の総本山光明寺で、布教の研修会があります。これは、お説教や法話を通じて宗門の教えを人々に伝えるための研修です。その講義の一つに、お説教の実演があります。西山浄土宗は、五つの教区に分かれいいるのですが、各教区から若手の説教師が1名ずつ出て実演を行います。その講評を題材にして勉強しようという試みです。

 私は年齢でいえば「若手」ではもちろんないのですが、説教師の道を学び始めてからはまだ日が浅いので、若手ではなくても初心者です。こういう実演は、あまり完璧なのも勉強にならないし、あまりの下手でも教材としては役に立ちにくい。「ここのところを直すと、もっと説得力のあるお説教になる」とか「こうすれば聞き手の心を開くことができる」といった指導をしていただける「素材」になれるのが理想です。となると、私には荷が重くて、準備もなかなかすすみません。

 今回は「三心」というお題が出ています。「三心」を仏教学辞典で引くと「浄土に生まれるために必要な三種の心、「至誠心」「深心」「廻向発願心」のことだと出ています。この三種の心を具えたものは必ず往生できると『観無量寿経』の中に説かれています。

 ということは、この三心を具えなければ極楽往生はかなわないのでしょうか?

 お念仏をするときも、きちんと身なりをととのえ、心を集中させ、命がけでいのらなければいけないのでしょうか?お念仏を一日に何千回、いや、何万回も称えなければ救われないのでしょうか?念仏を称えているときに、何か別のことが心に浮かんできたら、念仏の功徳は消えてしまいますか?「本当に極楽なんかあるのか?」と疑問がわいてしまったら、もう救ってはもらえないのでしょうか?信仰が揺らいだら念仏に意味がなくなりますか?仏教学をきちんと学ばなければ念仏は「カラ念仏」になってしまうのですか?

 たくさんの疑問がわいてきますね。

 結論から言うと、お念仏に何かを付足す必要もないし、彩り加える必要も全くありません。日本にお念仏の教えを確立した法然源空上人(法然上人)の最も円熟した教えを受け付いた善慧房證空上人は、「白木の念仏」という表現を使いました。お念仏には何の条件も、彩りも必要ありません。

 全ては阿弥陀様の方で私たちのために用意して下さっているからです。もちろん、三心も阿弥陀仏の側で用意してくださっているのです。(つづく)

◎今日の写真は證空上人が開かれた善慧寺で見たツツジです。