慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

3月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は3月17日(日)10時より、お彼岸の法要も兼ねて行います。テーマは「法然上人が開いた『浄土門』とは何だったのか?その2」です。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

宗教的威厳と″ただの威張りん坊”の違い

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 先日、ある葬儀会館で悲しい話をききました。葬儀の導師をするために葬儀場にやってきたある僧侶が、その日なぜか機嫌が悪く、えばりくさった態度で文句を言い続けたそうです。あげくのはてに、式場に入るために履く金襴のスリッパがお気に召さなかったようで「私にこんな安物のスリッパを履けというのか!」と、スリッパを放り投げたとか・・・・

 たしかに、その会館のスリッパは最上質のものとは言えませんが・・・侮辱していると思うほど安物でもありません。たとえ安物でも、どうどうと履けば十分に威厳を保つこともできるでしょう。

 僧侶の着る衣や袈裟は、確かにある種の宗教的権威や威厳を象徴するものです。きちんと手入れした質の良いものを用意していくように気を使うのは当然でしょう。慈雲寺のような貧乏なお寺でも、できる限りのことはしたいと思っています。

 僧侶は内面を充実させて「威厳」がにじみでてくるようでなければいけないとはおもいますが、そとから見える部分が与える影響、つまり「見た目」も大切にしなければなりません。

 しかし、充実した内面からにじみ出る「威厳」と、ただの「威張りん坊」は大きく違います。威厳を示すために威張り散らしたのでは、虚仮を戒められている僧侶としてはまったく恥ずかしいと言わなければなりません。

 私は幸いなことに(遠くからではありますが)、ダライラマ猊下にお目にかかったことがあります。シンプルが衣と袈裟を着て現れた猊下は、ニコニコして少し恥ずかしそうなお顔でした。しかし、会場にいた全ての人が誰に言われたわけでもないのに、席から立ち、合掌して猊下をお迎えしました。これこそ、自然ににじみ出た権威というものでしょう。

 自分を粗末に扱ったとか、もっと敬意を払えとか、不満を言う僧侶がたまにいますが、なんだかとても哀しいなぁと思ってしまいます。

 金襴のスリッパに怒ったお坊様も、今は自分のした愚かな行いを反省してくれていると良いのですが・・・・

◎今日の写真は、カナダのファーマーズマーケットで見た新じゃがです。おいしそうですね!日本でも今がジャガイモのシーズン。今日もおいしそうなポテトをいただきました。