先日、友人と話していて、自分が普段使っている言葉の意味が大きく違って受け取られていることに気が付きました。文章を書いて生活の糧としている自分としては、「意味が通じない」というのが一番情けないわけで、かなりのショックでした。
その言葉が「叱られる」です。私は誰かが「叱る」というのは、そこに少しの「好意」が入っている言葉として使っていました。つまり、叱ることによって良い方向に向かうことを願う気持ちが入っていると思っていたのです。
ですから、全く見当違いなことで叱ったり、理不尽なことで叱ったりされたら、その時はネガティブな「見当違い」、「理不尽」、「誤解」という言葉を足して言うものだと思っていたのです。
ところが、友人は「叱る」という言葉自体が非常に悪いことで、叱った人間を非難することになるというのです。「○○さんに叱られた」と誰かに言うこと自体が叱った人への悪口、批判になるというのです。「叱られた」ではなく、「ご注意を受けた」などという言葉に変えるようにアドバイスされました。
おお!これはうかつでした。私は、「叱る価値もない」と思ったり、その人のことが心から嫌いだったりしたら、叱ったりしないで放っておく・・・と思ったので、「叱る」にはプラス面があると思いこんでいました。
「○○さんに叱られた」と誰かに言うとき、私としては「○○さんが私のことを思って言ってくださった。教えてくださった。」という意味で言っていたのです。
そうかぁ・・・誰かを叱るというのは悪いことだったのか・・・・確かに、「教えていただいた」なら誤解のしようがないですよね。
以前にも、ある方から「『叱られた』というのはやめた方が良い」と言われていたのを思い出しました。その時期は、あまりにあちこちから叱られるので、素直に(?)「叱られた」と思っていたのですが・・・・
これはとても大事な指摘でした。私は口癖のように「叱られた」を多用するので、悪印象をばらまいていたと友人は言っていました。
僧侶としてもライターとしても、言葉の用い方は最重要問題。自分の口癖については特に気を付けなければと反省しています。
◎今日の写真は、カナダのモントリオールで見た群像の彫刻です。一人一人の表情がとても面白い!