慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

12月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は12月17日10時より行います。テーマは「廃仏毀釈とは何だったのか」です。どなたでもお気軽にご参加ください。

「愛国」も「信仰」も声高に語る人は信用できないなぁ・・・

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 和歌山にお説教に行かせていただいている間は、テレビも見なかったし、新聞を読む余裕もありませんでした。本当はお説教師は、最新のニュースにしっかり注意を払い、参拝においでになる方が何に関心を持っているか配慮してお説教を組み立てるべきなのですが・・・今回は全く余裕無しでした。反省・・・

 と、いうわけで、ここ数日、たまっていた新聞を読み続けていました。一つの話題を一週間分一挙に追っていくと何だか胸にずしんと来ますね。

 特に気になったのは、もちろん豊中森友学園の問題です。テレビで、塚本幼稚園の子供たちが教育勅語を暗唱させられていたり、「安保法案成立、嬉しいです」のようなことを叫んでいるのを見て、子供が不憫でならなかったし、それこそ「親の顔が見たい」と思いました。

 私は自分が保守的な考え方をしているとは思いませんが、国を愛することは大切なことだと思っています。しかし、国を愛するなら、戦争に巻き込まれるようなことをすべきではないし、軍備より農業を大切にして食料の自給率をあげるべきでしょう。若い人々が安定した職業に就き、安心して子供が育てられる環境を整えるのが「国を守る」ことの基本だと思います。そして、安心して老後が過ごせることも忘れてはならないでしょう。

 声高に「愛国、愛国」と叫ぶ人ほど、結局はお金に目がくらんでいるだけではと疑問です。貧富の差が大きくなっているのに、「愛国」で忍耐を強いているようにも感じます。

 本当に国を愛する心は、原発などに汚染されない美しい自然を守り、誰もが穏やかに暮らしていけるところに、自然に生まれてくるものです。声高に愛国が叫ばれたとき、日本は戦争をし、国土は焼け野原になったことを忘れてはならないでしょう。

 信仰も同じだと私は思っています。何かがうまくいかないと「信仰が足りない!」などと脅かされるような宗教は本当の宗教ではないでしょう。

 「私はこの神様(仏様)に救われました!」と自慢げに語る人は、本当に「安心」を得ているのかなぁ・・・と疑問です。

 「安心」(あんじんと読みます)とは、法蔵菩薩がすべての衆生を平等に、残らず救うという誓いを立てて、それを成就して阿弥陀仏になられたといういわれを聴いて、「ああ・・・そうだったのか・・・」と、心から納得した状態をいいます。

 阿弥陀仏に願われている身の上だと知り、阿弥陀仏が何の条件もつけずに、私たちを救ってくださっていると領解(りょうげと読みます。心からうなずくこと)したとき、嬉しさのあまり口からこぼれ出るのが「南無阿弥陀仏」のお念仏です。

 ですから、自分の信仰の深さを自慢しても、何の意味もないのです。「阿弥陀様に願われている」ことを喜んで穏やかに暮らすことが大事なのですから・・・・

◎今日の写真は大府市の盆梅展でみた白梅です。