慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

法然上人の月影のお歌

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 昨日の「満月写経の会」は参加者三名でしたが、静かで心地よいときを過ごすことができました。月明りの下で読経するのもいいですね。

 12月の「満月写経の会」は12月4日7時半より行います。どなたでもお気軽にご参加ください。

 さて、月光といえば、法然源空上人(法然上人)の詠まれたお歌に

「月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ」

というのがあります。一般的な解釈は「阿弥陀仏の本願(全ての衆生を救うという誓い)は、月の光のようにどこの里にも降り注がれている。しかし、月を眺めない人には月の光の存在はわからない。このように南無阿弥陀仏の念仏を称えた人だけが、極楽へ往生できるのだ」とされています。しかし、私はどうも、この説明が心にしっくりこないのです。

 阿弥陀様は何の条件もつけずに、私たちの全てを救うと誓われ、その誓いが成就したからこそ、阿弥陀仏になられているのですから・・・・

 念仏を称える人だけが救われる・・・う~~ん・・・念仏はたくさんした方がよいですか???

 上の説明では、「キリストの愛は万人に開かれているけれど、キリストを受け入れなければ、天国へはいけない」というキリスト教の考え方とどう違うのでしょう?

 たしかに、たとえ阿弥陀仏といえども、縁無き衆生はいかんともしがたい・・・今生で阿弥陀仏とのご縁が結ばれなければ、私たちはまた流転を繰り返していかなければならないのでしょう。

 でも、私たちは法蔵菩薩の深いお慈悲、阿弥陀仏になられた因縁を聞かせてもらうだけで、「ああ・・・そうだったのか」と、心に本当の安堵が満ちたときに、口からこぼれ出てくるのがお念仏です。

 お念仏をするから救われるのではないのです。う~ん・・・どう説明したらよいのかなぁ。

 次の満月までに、法然上人の月影のお歌の、もっとわかりやすい解説に出会いたいものです。