慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

12月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は12月23日(日)10時より行います。テーマは「戒名」です。戒名の本来の意味、理想的な授かり方をご一緒に学んでみましょう。

法然上人の月影のお歌

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 昨日の「満月写経の会」は参加者三名でしたが、静かで心地よいときを過ごすことができました。月明りの下で読経するのもいいですね。

 12月の「満月写経の会」は12月4日7時半より行います。どなたでもお気軽にご参加ください。

 さて、月光といえば、法然源空上人(法然上人)の詠まれたお歌に

「月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ」

というのがあります。一般的な解釈は「阿弥陀仏の本願(全ての衆生を救うという誓い)は、月の光のようにどこの里にも降り注がれている。しかし、月を眺めない人には月の光の存在はわからない。このように南無阿弥陀仏の念仏を称えた人だけが、極楽へ往生できるのだ」とされています。しかし、私はどうも、この説明が心にしっくりこないのです。

 阿弥陀様は何の条件もつけずに、私たちの全てを救うと誓われ、その誓いが成就したからこそ、阿弥陀仏になられているのですから・・・・

 念仏を称える人だけが救われる・・・う~~ん・・・念仏はたくさんした方がよいですか???

 上の説明では、「キリストの愛は万人に開かれているけれど、キリストを受け入れなければ、天国へはいけない」というキリスト教の考え方とどう違うのでしょう?

 たしかに、たとえ阿弥陀仏といえども、縁無き衆生はいかんともしがたい・・・今生で阿弥陀仏とのご縁が結ばれなければ、私たちはまた流転を繰り返していかなければならないのでしょう。

 でも、私たちは法蔵菩薩の深いお慈悲、阿弥陀仏になられた因縁を聞かせてもらうだけで、「ああ・・・そうだったのか」と、心に本当の安堵が満ちたときに、口からこぼれ出てくるのがお念仏です。

 お念仏をするから救われるのではないのです。う~ん・・・どう説明したらよいのかなぁ。

 次の満月までに、法然上人の月影のお歌の、もっとわかりやすい解説に出会いたいものです。