前回のブログで、性同一性障害を自覚していらっしゃる方の戒名(法名)の問題について書いてみました。すると、「慈雲寺さんは同性愛についてどう思っているのか?」という質問を受けました。
私は慈雲寺に赴任する前、40年近くカナダの西海岸に住んでいました。カナダはキリスト教の影響を強く受けている国ですから、同性愛を「聖書で禁じられている罪」と考える人もたくさんいました。しかし、私が住んでいた西海岸は、リベラルな気風でしたから、同性愛に対する寛容さは他の地域にくらべて高く、私も特別そのことについて考えるまでもありませんでした。もちろん、同性愛へのヘイトが原因の暴力事件などが起きたこともありますが・・・
仏教では、今、人間として生まれてきた私たちは、何度も何度も輪廻転生を続けてきたと考えています。その間には、雄だったことも雌だったことも、女性だったことも男性だったこともあるでしょう。私たちの心の中に様々な要素があって当然だと思います。当然、同性を愛する気持ちが起きることもあるでしょう。
日本では、「他の人と違う」ということは、それだけで差別の対象になりがちです。同性を愛してしまった人は生きにくいのは事実でしょう。また、「子供を産んで、家を存続させることこそ、人間のまっとうな生き方!」と決めつけている人にとっては、同性愛の人は「悪」に思えるかもしれません。
しかし、大事なことは、阿弥陀様は一切の条件をつけつずに、私たちを救い取って下さっているということです。阿弥陀様の救いに差別は一切ないのです。
「性」の問題は、人間の本質にかかわることですから、宗教の重要なテーマです。愛欲はなにより強い執着を生むものでもあるからです。
ですから、仏教の僧侶は結婚せず、愛欲から離れて生きていけとお釈迦様は教えています。しかし、末法の世に生きる凡夫の私たちには、なかなか難しいことです。頑張って愛欲から離れようとすれば、それがかえって執着になってしまうし・・・
日本に、阿弥陀仏への信仰を確立した法然房源空上人(法然上人)は、「お念仏しやすい生き方を選べ」と教えています。山奥で一人で暮らす方がお念仏しやすければ、山に入れば良い。弟子の親鸞には、「妻と暮らした方が念仏しやすいなら、そうしなさい」と教えています。
人を愛することは善いことです。それが異性でも同性でも、本質的には「善」だと私は考えます。仏様に性別はないのですから・・・しかし、それが執着になれば、自分も相手も苦しむだけ。広々とした愛で相手を包むのは、難しいですね・・・