慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

3月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は3月17日(日)10時より、お彼岸の法要も兼ねて行います。テーマは「法然上人が開いた『浄土門』とは何だったのか?その2」です。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

孤独でも孤立はしない

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 今朝の中日新聞五木寛之さんの本の広告が出ていました。『孤独のすすめ』・・・まあ、なんと魅力的なタイトルでしょう。キャッチコピーは「あなたは孤独な老人ですか?それなら、人生は豊かになります」、「元気な百歳老人、孫に囲まれる老後は、本当にそれだけで幸せでしょうか?」・・・う~~ん、これもなかなかいい。今日、本屋に行って、この本が並んでいたら買うなぁ!

 私は日本に戻って、新聞や週刊誌にしばしば「独居老人」とか「孤独死」とかいう言葉が出てくるのに、いつも違和感がありました。自分がお寺に独居する尼僧だからかも??「独居老人」という言葉には、何か非難めいた、もしくは憐れんでいるような論調が付いてくるのが気になります。

 一人で住んでいても、孤立しているとは限りません。その人は趣味の仲間や信仰をともにする同行者との豊かな交流があるかもしれません。反対に、一つ屋根の下に何人もの人が同居している家でも、精神的に孤立している老人や子供はいるでしょう。誰にも理解されていない、顔を見ても気にもとめてもらえない人もいるのではないでしょうか?

 阿弥陀さまの御慈悲に気づいた人は、もう決して孤立してはいません。阿弥陀仏は一切の条件を付けずに、私たちを抱きとり、いつも一緒にいてくださるからです。特に私たちの浄土宗西山派西山浄土宗)の教えは、100%の絶対他力です。私たちは阿弥陀さまが、なぜ阿弥陀仏になられているのかを聞かせてもらうだけで良いのです。「信じる」ことすら条件ではありません。疑いの心がおきるのは、凡夫の本性ですからね。

 善い子だからとか、成績が良いからとか、姿が美しいからとか・・・そんな条件はいっさいなく、阿弥陀さまは私たちを救ってくださっています。

 山の中に一人で住んでいても、お寺で一人でいても、都会の雑踏の中を一人で歩いているときも、阿弥陀仏のお慈悲に包まれているのですから、私たちは孤立しているわけではないのです。

 他の人々のために自分ができることを積極的にさせてもらおうという「利他」の生き方が仏教徒の暮らしの基本です。そんな人に孤立はありえないでしょう。

 でも、やはり寂しいなぁ・・・と思うときはあるでしょう。そんな日は、どうぞお寺へお参りに行ってください。阿弥陀様のやさしいお顔をゆっくり拝むだけで、心が温かくなってきますよ。和尚さんとお話しして、ちょっと一服できたら理想的ですね。

◎今日の写真は大阪の住吉大社で見た弁天様です。