「慈悲というと、私たちはよく、自分よりも惨めな状況にある人をちょっと見下した気持ちで、『ああかわいそうに』と気の毒に思い、その人に憐憫の情をかけることを意味しているよう思いがちですが、そうではありません。
心の底から湧き上がってくる、本当に大事な宝物に対するような認識で、相手を誰よりも身近で親密に思う感情こそ、真実の愛であり、慈悲なのです。」
前回のブログで書いたダライラマ法王の『ダライ・ラマ 希望の言葉』という本の一節です。
今朝、このお言葉に再び出会ったので、今日は一日中「慈悲」とは何かということを考えていました。猊下がお書きになっておられるように、私たちはしばしば、いわゆる「上から目線」で憐れむことを慈悲と混同しがちです。
この「憐れみ」は、本当の憐れみではなく、優越感だったり、「他人の不幸は蜜の味」というような不純な動機に曇らされた憐れみです。このような偽物の憐憫は仏様の御慈悲とは全く異質なものです。
阿弥陀仏は、苦しみの輪廻を繰り返す私たち凡夫を純粋に憐れんで下さり、とても大切に慈しんでくださっています。それだからこそ、阿弥陀仏のお慈悲には一切の条件がないのです。
何か小さな条件でもつけたら、私たち凡夫のほとんどは救われないでしょう。そんな凡夫を救うために、私たちに代って全ての必要な修行と懺悔をして下さったのが阿弥陀仏です。阿弥陀仏のお慈悲は限りなく広く深い。
私たちは安心して良いのです。
そして、いったん「安心」(あんじんと読みます)をいただいたら、自分のできる範囲で他の人を助け、慈しんでいく暮らしを目指すのです。それが仏教徒の穏やかで喜びの多い暮らしの基本です。
★蛇足ですが、私は「目線」という言葉にとても違和感を覚えます。私は子供のころ、テレビの仕事にほんの少しかかわったことがあるのですが、そのころにテレビ業界の人たちが、こちらを向いて欲しいという意味で「目線はこちら」などという表現を使っていたように思います。芸能界の業界用語が広がった??
視線という言葉は死語になったのでしょうかね?でも、言語学者の友達に言わせると、どのような表現も20年使われていれば、それは「正しい」言葉だとか。そろそろ目線も受け入れなければいけないのかもしれません。特に「上から目線」という言い方は、他に表現方法が思いつきませんね。
◎今日の写真は円空仏の観音様です。