慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

3月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は3月17日(日)10時より、お彼岸の法要も兼ねて行います。テーマは「法然上人が開いた『浄土門』とは何だったのか?その2」です。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

雪舟の「慧可断臂図」が気になる

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 上の写真は、雪舟の代表作の一つ、「慧可断臂図」と呼ばれる絵です。達磨大師が座禅をしているところに、ある僧侶が弟子にしてほしいと願ってきます。しかし、達磨大師は振り向こうともしません。弟子入りを強く願う僧侶は、なんと自分の左手を切って決意を示します。それを見た達磨大師は、ついに入門を許し、その弟子は、やがて慧可という達磨大師の後継者となったというお話しを題材にしています。

 私は中学生の時に初めてこの絵を見ました。雪舟の絵を意識的に見たのは、たぶんそれが初めて。慧可の差し出す手首には、うっすらと血がにじんでいてのが強烈な印象でした。

 しかし、その時から今まで、私はこの絵を見るたびに、なんだか「う~ん・・・」という気持ちになってしまいます。慧可はなぜ左手を差し出したのでしょう?それだけ強い決意を見せたということでしょうか?達磨大師はそこまでする慧可の決意を認めたということでしょうか?う~ん・・・そうかなぁ・・・

 「手を切ることによって、今までのとらわれた自己を絶って、弟子になる決意をしたのだ」という説明も見たことがあります。それもしっくりきません。

 第一に、達磨大師はなんだか迷惑そうなお顔じゃありませんか?「慧可よ、問題はそんなところにあるわけではない」とでも言いたげです。

 まあ、自分で自分の手を切るとなると、右利きなら左手を切るしかないのだとは思いますが、決意を見せるなら、利き手を切れと思いませんか?左手では、決意が足りないと思いませんか?

 足なら良かったのか、目ではどうでしょう?達磨大師が求めていたのは、そんなことではないのでは?「ちゃいまんがな」と、なぜか変な関西弁をつぶやきながら、達磨大師が顔をしかめているように見えて仕方がありません。

 まあ、これが分からない私は、お念仏の道に出会って良かった・・・ということかもしれません。