27日にアメリカのピッツバーグで起きたシナゴーグ(ユダヤ教会堂)の襲撃事件の記事を読んで、深い哀しみを感じています。なんの宗教であろうが、聖なる場である社寺、教会堂は「安全」な場であるべきです。誰もが、その中にいれば安心して祈れることこそが、聖なる場の役割だからです。
憎悪を抱いて入り込んだ人が、その荘厳さや静けさに打たれて銃を下ろさなかったというのは、とても残念なことです。「神」はそれをどう見ておいでだったのでしょう?目の前で自らの信者が殺されても沈黙している「神」・・・お寺だったら仏様はどうなさったでしょう?
慈雲寺に、もし、憎悪で燃え上がっているような人が押しかけてきたら・・・本堂に上がり込んだとたん、「あれ?自分は何をしているのだろう?」と思ってもらえるような雰囲気のお寺になっているでしょうか?
この報道をきっかけに、考えさせられることがたくさんあります。せめて、美しい花を飾り、心地よいお香のかおりのただよう場を作るところからでしょうか?
ところで、新聞を読んで気になったのは、世界におけるユダヤ人差別の根深さについて、日本ではいまひとつ理解されていないのでは?ということです。誰でもヒットラーのユダヤ人迫害のことは知っているでしょうが、あのことは、ヒットラーの思い付きではなく、長い差別の歴史の一部でしかありません。
シナゴーグの襲撃や破壊も何度も、何度も繰り返されてきたことです。
宗教を背景にした憎悪や差別をなくすのは、とても大変なことです。お互いの理解を深めるのはもちろんですが、皆が安定して暮らせる社会の実現も不可欠でしょう。
「自分が失業したのは、○○の連中が仕事を奪い、富を独占しているからだ。」
自分の状況を「誰か」のせいにして、不満をぶつけていく。政治家もそれを利用する・・今、アメリカでおこっているのは、正にこの負のスパイラルです。
◎今日の写真は、ネットの無料画像からお借りした、スペインのシナゴーグです。スペインでは、イスラム教徒が主流だった時代には、ユダヤ人迫害はほとんど起きていなかったそうです。