慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

3月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は3月17日(日)10時より、お彼岸の法要も兼ねて行います。テーマは「法然上人が開いた『浄土門』とは何だったのか?その2」です。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

「お寺をAllyのプラットフォームに」という提案に慈雲寺は全面的に賛成します。Part1

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 14日から大阪のインデックス大阪で開かれていた「セレモニージャパン」という展示会に行ってきました。

 これは、8月に東京で開かれて、私も参加した「エンディング産業展」の大阪版という感じの催し。出店している業者も東京と重なるものが多かったのですが、初めてという業者もあり、また、東京より人がぐっと少ないので、ゆっくり見ることができました。

 その上、私が今、関心を持っているテーマにピッタリなセミナーがたくさんあって、なかなか充実した二日間になりました。どのセミナーも興味深ったのですが、中でも「寺院におけるコンプライアンス」についての伊藤照男氏の講演が印象的でした。

 お寺も法人ですから、コンプライアンスについて意識するのは当然ですが、普通の企業以上に人々の期待は高く、誠実さが求められていると伊藤氏は言います。

 伊藤氏は寺院運営にかかわる色々な面でのコンプライアンスの例を挙げていましたが、その一つに「LGBTへの差別はセクハラだ」と明確に認識せよという指摘がありました。

 私は慈雲寺に赴任する前に40年近く、北米の西海岸に住んでいました。カリフォルニアからバンクーバーまで、西海岸の大都市はリベラルな雰囲気のところが多く、LGBTの人々の比較的おおらかに暮らしていけるようです。もちろん、表に出にくい差別はなくなってはいないでしょうが・・・

 同性婚を公式に認める自治体が多いですし、キリスト教の教会でも宗派によっては自然に受け入れているようでした。

 私はカナダの人に「日本ではどうなの?」と聞かれるたびに、「日本では、なんでも“他の人と違う”というのは生きにくい。その意味では、性的マイノリティーの人は、けして、何の問題もなく自分らしく生きていく・・・というのは簡単ではないと思う。しかし、キリスト教文化圏との決定的な違いは、LGBTが”神に対する罪”ではないことだと思う。」と答えていました。

 保守系キリスト教会派では、「聖書で禁じられている。LGBTは神への冒涜だ」という非難さえあります。「信仰の力で乗り越えられる!」なんて主張もまだ少なくありません。

 阿弥陀仏は、どのような人間でも「その身、そのまま」受け止めて、救って下さっています。LGBTは「乗り越えなければならない」ものでも、「矯正すべきもの」でもないのは当然のことだと思っていました。

 なので、日本の仏教寺院でLCBTの人々への差別があったり、カミングアウトがしにくい雰囲気があるなんて・・・・とても情けなく思います。

 慈雲寺は、「アライ」として何ができるのか?どうしたら、だれもが「その身、そのままで」阿弥陀仏の前で、すっかりくつろげるようになるにはどうすればよいのか?慈雲寺がその「場」になるにはどうしたら良いのか・・・・(つづく)