以前、「インターネットゲームを始めましたが、課金してまで勝ちたい気持ちが解らん。」というお話を書きました。当時、よくやっていたのは、「パイレーツ・アンド・パールズ」というゲームなのですが、それはすでに私の中ではブーム終了しました。
最近、よく見ているのは「アイテム探しゲーム」と呼ばれるものの一つです。骨とう品店やお城の倉庫のように、さまざまなものが置かれている部屋から、指定された品物を見つけてクリックするという単純なゲームです。しかし、これがなかなか面白い。
指定されているものは、置き方や色などで、周囲の品物や壁、床に巧妙に置かれています。
隠されているわけではないところがミソ。
いったん、その物に気が付けば、ちゃんと見えてくる。大きさも、けして小さくて見えないというわけではありません。例えば「扇子」というのが指定されているとすると、ほとんどの場合、扇子が二つ別々の場所に描かれているのです。
物がどうしても見つからないとき、魔法のコンパスなどを使えば、探し物が見つかる可能性がグッと高まります。そういう魔法の道具は、時々無料で提供されます。いったん、それを使って安易に問題をクリアしてしまうと・・・・
課金地獄がまっている?! というわけです。
私は、このゲームをしながら、ときどき「阿弥陀様のお救いもこんなかんじかなぁ?」と思ってしまいます。かなり不謹慎な発想かも??
つまり、阿弥陀様のお救いは必ずある。むしろ、私たちは阿弥陀仏の救いの中に生きている・・・でも、見えないんですね。そんなとき、阿弥陀仏がなぜ阿弥陀仏になられたのかという、「阿弥陀仏の因縁」を聞かせていただくだけで・・・・
こちらからは、何も用意しないのに、まるで魔法のコンパスのように阿弥陀仏のお救いに気が付く。気が付いたら、あそこにも、ここにも・・・目の前に以前からちゃんとあることが見えてくる。
う~~ん・・・やっぱり不適切な比喩かな?
でも、聞かせてもらって、気づかせてもらえば・・・私の方からは何も用意しなくても、私たちはすでに阿弥陀仏の救いの中にあるのです。
あ、なんだか、またゲームがしたくなってきました。
◎今日の写真は、有名な大阪の法善寺横丁のお不動さまです。お水をかけてお参りをするので、お不動さまのまわりは苔がびっしり。でも、「お不動さま」と教えていただけば、緑のかたまりが、ちゃんとお不動さまの姿に見えてきます。