慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

阿弥陀様のお慈悲を「大船」に例える

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 私たちは輪廻を繰り返している間にさまざまな業を積み重ねています。善業も少しはあるでしょうが、重い石のように悪業を背負っているのです。

 重い石のような私たちは、もちろん河の流れに浮かぶことはできないし、泳いで彼岸に渡ることもできません。

 しかし・・・・先日、ある方のお説教を聞きに行って、お説教師の方が興味深い譬えをお話してくださいました。

 「安心してねというときに、『大船にのった気持ちで』と良く言うでしょう?阿弥陀様のお救いはこの大きな船のようなものなのです。」

 石のように重い業を背負った私たちは、自力で水面に浮かぶことはほぼ不可能です。台風でも来て、向こう岸に押し流されるということはあるかもしれませんから、自力を否定するわけにはいかないでしょう。しかし、それでも石が自分で泳いだわけではない。

 そんな私たちを憐れみ、私たちに代わって必要なすべての修行、すべての懺悔をしてくださったのが法蔵菩薩です。そして、必要な修行、懺悔が完成したとき、菩薩は阿弥陀如来となられ、同時にすべての衆生は救いの大きな船に乗せてもらったのです。石も泳ぎを知らない動物も、川の流れに逆らえない小さな虫もすべて、大船に乗せていただいているのです。

 法蔵菩薩は全ての衆生を救わなければ、仏にはならないと誓っていました。その法蔵菩薩阿弥陀仏になられたということは、すべての衆生は救われているということにほかなりません。

 衆生の往生が完成したからこそ、法蔵菩薩阿弥陀仏になられたのです。

 しかし、残念なことに私たちの深い業は、そのことに気づかない。阿弥陀仏の救いに気が付かないと、船に乗せていただいているのに、再び輪廻の中に流れて行ってしまうというわけです。

 法然源空上人(法然上人)の高弟だった証空上人は、「私たちは、阿弥陀仏の願い、お慈悲のことを聞かせていただくだけで良い。」と教えて下さっています。

「ああ・・・そうだったのか。もう大船に乗っているのか。嬉しいなぁ・・・」と思ったとき、口からこぼれ出るのが「南無阿弥陀仏」のお念仏です。

 今日は一日、「大船に乗った気持ち」でゆったりお過ごしください。

◎今日の写真は、夏に奈良の国立博物館で見た蓮の花です。極楽にもたくさん蓮が咲いているそうですよ。