慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

3月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は3月17日(日)10時より、お彼岸の法要も兼ねて行います。テーマは「法然上人が開いた『浄土門』とは何だったのか?その2」です。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

證空と道元という兄弟 Part2

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 上の家紋は、「久我竜胆」と呼ばれているもので、村上源氏の総本家の家紋として知られています。

 実は、この久我竜胆は、曹洞宗でも浄土宗西山派でも宗門の紋として使われています。これは、曹洞宗を開いた道元禅師(以下道元)も、浄土宗西山派の流祖證空上人(以下證空)も、ともに久我道親を親とする「兄弟」だからです。

 久我道親は久安5年(1149)に村上源氏嫡流として生まれました。その後、高倉天皇を始め、源平の力のせめぎあいの中で、何代もの天皇の側近として内大臣まで登り、朝廷で活躍(暗躍?)した人物です。

 證空は、治承元年(1177)に源親季の子として生まれました。親季は、通親の一門の一人だったという以外は、ほとんど何も明らかではありません。

 證空は幼少の時に、一門の最有力者であった通親の「猶子」となったと言われています。猶子とは「なほ子のごとし」、つまり、まるで実の子のようなという意味です。養子よりも緩い関係と説明されることもありますが、養子とほぼ同じように遺産相続にもかかわることも多かったようです。

 当時の公家や武士たちの間では、一門の中の優秀な人材との関係を「養子」という形で強化し、その人物を政治的な「駒」として使って勢力範囲を広げるというようなことがしばしば行われていたようです。

 しかし、元服を迎えようとしていた證空は宮廷政治家になることを嫌い、出家を望んだといいます。それも、当時の仏教界の「出世の道」であった比叡山へ行くのではなく、法然源空(以下法然)の弟子になろうとしたのです。当時の法然は、比叡山を降りて16年、専修念仏の信者も増え、九条兼実などの有力貴族の帰依を受けたりはしていましたが、実際には隠遁僧のままの暮らしを続けていました。

 政治的な「駒」としては、一門こぞって反対されても仕方のない状況でした。

 しかし、證空は意志を代えることなく法然の元で出家しました。それから師僧の法然が入滅するまでの23年間。證空は、師に最も近い弟子として修学を続けました。法然の最も円熟した思想を直接受け継ぐことができたと言って良いでしょう。(続く)