慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

法然→證空→聖達→一遍へと受け継がれた「信」の問題 Part2

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 今月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」のテーマで「仏教における『信』の問題」を取り上げることにしました。

 今でも活動を続けている人がどれほどいるのか知りませんが、私が子供の時代には、クリスマスが近づくと救世軍の人たちが「信じる者 はみーんなー、みーんな救われるー」と歌いながら社会鍋への寄付を募っているのをよく見かけました。

 この「信じるものは救われる」という言葉は、子供心にとても強く残るものでした。信じなければ救ってくれないのか、神様は・・・・しかし、何をどう信じればいいのかなぁ???と、疑問がいっぱい。

 少しでも疑いの心がおきたら、神様に見捨てられてしまうのか?そんなに「不退転の確固たる信仰」なんか持てるのかなぁ???

 でも、「鰯の頭も信心から」とも言うしなぁ・・・・

 病気直しみたいな「証拠」を出されると、人は「信じる」けれど、それは本当の信仰なのかなぁ・・・

 

 実は、私の大叔父はある教団の教祖でした。東京の高級住宅街にそこそこ大きな建物を本部にかまえ、毎月分厚い機関誌も発行。当時の首相も信者に名を連ねていました(まあ、名前だけのお付き合いで、熱心な信者というわけではなかったでしょうが)。その機関紙には、大叔父の「優れた霊力」をあがめる信者たちの熱烈な言葉が並んでいました。

 しかし、大叔父な亡くなると、その熱心な信者たちはアッという間に消えてしまいました。病気直しが売り物だった教祖が病で死んでしまったからでしょうか?

 それを横から眺めていた私は、「信じる」ということに深い疑問を持つようになりました。

◎今日の写真は、一遍上人が賦算(南無阿弥陀仏の名号を書いた札をくばる)なさっていたときのお札です。この賦算については次回お話します。

◎「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は11月24日10時より行います。