慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

3月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は3月17日(日)10時より、お彼岸の法要も兼ねて行います。テーマは「法然上人が開いた『浄土門』とは何だったのか?その2」です。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

ここ数日、「輪廻の主体」について考えています Part1

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 ときどきコメント欄にするどい指摘や質問を残して下さるももはなさんが、先日、

阿頼耶識って…簡単に言えば生物発生から流れる記憶(蔵憶)で良いの?? ”という質問をコメント欄に書き込んで下さいました。

 阿頼耶識とは何かというのは、仏教学の授業のときにさんざん議論してきた問題です。このごろは、日本の尼僧界の中で最も学識の深い方の一人であられ、九十歳を超えてなお矍鑠として唯識について語られる浄土宗鎮西派の近藤徹稱上人にお目にかかる機会が何度かあったので、「阿頼耶識」のことがずーっと心の奥にひっかかっています。

 枕経に行くときやお通夜の法話などで、ときどき輪廻の話をすることがあります。このときに、「霊」とか「魂」とかいう言葉をあまり使いたくないので、「阿頼耶識」を引き合いに出すことがあります。

 心臓や脳など、肉体の働きが停止しても、阿頼耶識は機能しつづけて仏語(お経)の文言は届いている・・・とお話すると、葬儀の意味を説明しやすくなるからです。

 「輪廻」の思想は仏教以前のインドに広く受け入れられている考え方です。しかし、仏教は「何が輪廻していくのか」とか「輪廻の主体は何か」という点で、他のインド思想と大きく違います。バラモン教などでは、輪廻の主体として「アートマン」(我)という不変の存在を想定しています。しかし、仏教は無我説をとるので、ではいったい何が輪廻していくのでしょう?

 もちろん、学校で習い覚えた唯識や中観の仏教用語を振り回して説明らしくものを捏造することはできますが・・・できるかな??

 日常の言葉を使って誰にでもわかりやすく説明できるかどうかが、説教師の腕の見せ所です。ダライラマの在家信者向けの本を読むと、輪廻の主体を「霊魂」と説明していますが、翻訳が正しいか疑いたくなるところです。

 また、最近の一般向けの仏教書では、輪廻を「エネルギー」の変化というように説明しているものもあります。エネルギーは姿はかわっても、その大きさは変わらないという「エネルギー保存の法則」を持ち出して、私たちは輪廻しても、その根本的なエネルギーは変わらない。しかし、固定した姿はないのだから、「無我説」とも矛盾しない・・・という説。

 でも、これではももはなさんの「記憶」という質問の答えにはなりませんね。しかし、阿弥陀様の四十八願の中に、おもしろい誓願があります。それが「記憶」と関係あるかも?(つづく)

◎今日の写真は、慈雲寺の近くにある旧東海道の道筋で見た紅葉です。