先日、ある方の葬儀に参列しました。外出自粛要請が出されようとしていた時期だったので、ご家族の方はあまり広範囲にお知らせをしなかったのですが、故人のMさんは、多くの人々に敬愛されていた方だったので式場にはたくさんの供花が並べられていました。
新型肺炎のことが深刻になる以前から、いわゆる「家族葬」と呼ばれる形式の葬儀は増えてきていました。昔から、ごく近しい親族だけで行う「密葬」というものはあったわけですが、「密葬」というと何やらわけありな響きです。状況はほとんど変わらないですが、「家族葬」と言い換えると、そのわけあり感はだいぶ薄れますね。
家族だけで静かに見送りたいという気持ちは私にも容易に想像できます。しかし、私は数年前に実父送ったときから、少し考えが変わってきました。
父は生前、献体の手続きをしていましたから、臨終から遺体を大学病院の方に引き渡すまで、私が枕経を行いましたが、いわゆる葬儀はしませんでした。
しかし、父の死を父の友人や知人にお知らせすると、多くの方から「お別れがしたかった」とお手紙やお電話をいただきました。ほとんどの方が、驚くほど詳しく、父との思いでを綴って下さいました。
そこには、「父親」としての父の姿ではなく、会社の上司として、同僚として、取引先として、趣味の仲間として、戦友としての父の姿がありました。私が全く知らなかった父の姿です。
家族が知っている「人の姿」は、一面でしかありません。いや、父として、夫として、祖父として・・・それぞれ違うはずです。
葬儀、とりわけ通夜に集った人々が、それぞれの思い出を語ってくれたら、残された遺族は、故人をさまざまな面を持った「立体としての人間」として深く心に刻むことができるのではないでしょうか。