新型コロナウイルスの問題が始まってから、葬儀も密葬のように少人数の近親者だけで行うということが増えているようです。会食もなく、火葬場からすぐに初七日を行って、四十九日も省略・・・という例も聞いています。
先日、慈雲寺の近くの旧家の御当主が亡くなりました。家族だけで葬儀が行われたのですが、格式のあるお家柄だけに、たくさんの僧侶が招かれ厳粛な儀式が行われました。
しかし、その後、あちこちから「お別れができなくて、とても心残り。こんな時だからお線香をあげさせてもらいにお宅に伺うのもはばかられる・・・」と哀しそうな声を聞くようになりました。故人は、長年地域に貢献した方ですし、広い年齢層で友人の多い方だったからでしょう。
そんなときにおすすめしているのが、百箇日の法要にあわせた「偲ぶ会」です。百箇日は、四十九日と同じ規模で行う葬送行事です。今はほとんど行われませんが、私はこの「百日」という期間はとても大切なものだと思っています。
百箇日の法要は「卒哭忌」とも言われます。嘆き悲しむのを卒る(やめる)という意味です。嘆きの日々に区切りをつけて、日常生活にもどるきっかけと言っても良いでしょう。もちろん、近しい人を失った哀しみから完全に抜け出せるわけではありませんが・・・
以前にも書きましたように、故人が何歳であっても、家族以外の人々との縁がなくなるわけではありません。故人との別れを悼む人は、家族が思っている以上に多いものです。現在のように、「お線香をあげさせてもらいに故人の家を訪ねる」というのが難しい場合には、ぜひ百箇日に合わせて「偲ぶ会」を開くことを考えて下さい。
お寺に集まって、短い法要をしてもらい、お茶とお菓子で故人を偲んで茶話会のようなものをするというのはどうでしょう。できれば、それぞれの人が故人とのご縁やエピソードを話すのがおすすめです。
この偲ぶ会のイメージは、カナダにいたころに出席したキリスト教会の葬儀です。お別れの礼拝が終わると、参列者が次々と前に出て、故人との思いでを語ります。順番も決まっていないし、だらだらと話す人もいません。葬儀には、故人の家に新聞を配達していた少年から、バラの栽培を趣味とする仲間、仕事の同僚、小学校の同級生など、さまざまな人が、さまざまな思い出を語るのです。
家族の知らない故人の姿も語られて、これが遺族にとって大きな慰めになるのはいうまでもありません。
偲ぶ会はいつ開いても、誰が主催しても良いでしょう。場所をお探しでしたら、きっと、協力してくださるご近所のお寺を見つけることができるでしょう。お寺なら、祭壇などを改めて設ける必要はないし、大勢でも大丈夫。慈雲寺を利用して下さるなら、もちろん、喜んでお手伝いさせていただきます。
◎今日の写真は、カナダのブリティッシュ・コロンビア州北部にあるベア氷河です。