慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

手をあらうように、いつも心をきれいにしておこう

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有松の天満社で配布されている猩猩のお守り

 

 ここ数日、またまた気持ちが落ち込んで、ぼんやりしていました。亡くなった子猫のせいかもしれませんが、別の理由も。

 昨日は、可愛らしい花束を持ってお寺を訪ねて下さった方がありました。「何でもお手伝いします」と言って下さったのですが、お名前を聞くのも、お茶にお誘いするのも咄嗟にできませんでした。本当にごめんなさい。

 いただいた花は、台所の窓辺に飾って、昨日から何度も心を慰められています。もし、このブログを読んでくださっていたら、ぜひもう一度お会いしたいです。ゆっくりお話しましょうね!

 

 何もする気になれず、ぼんやりとしたいときに良く手にするのが、『ブッダがせんせい』という冊子です。これは仏教伝道協会が発行しているもので、仏典の中の言葉をこども向けに翻訳して、やわらかな口調で解説しています。

 原典となる言葉も掲載されていますし、読み聞かせる大人のための解説もついています。

 今日、ぱらぱらと開いていたら、偶然にこのページが目に入りました。タイトルは「手をあらうように、いつも心をきれいにしておこう」です。

 ブッダは「心をきれいにしておくことは、とてもだいじなこと。いつもきれいな心でいれば、楽しいことやうれしいことがたくさおきる」と言っています・・・・

 

 これは、最も古い仏典のひとつ『ダンマパタ』の中の、「すべてのものごとは、その人の心によって成り立つ。いつも清らかな心で話したり行動するならば、楽しみや喜びは、いつも影がそうように、その人につきしたがうだろう」という言葉からとられています。

 

 私の心に重く淀んでいたのは、子猫への哀れみではなく、自分の心の汚れだったようです。まずは、手を洗って、お部屋の整理をしながら、心も洗っていきましょう。

 

5月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」はお休みいたします。

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去年の6月下旬に撮影したご近所のブドウ畑。今年は梅雨が長いそうですが、こんな風にたっぷり実がなると良いけれど・・・

 

 慈雲寺の周辺には、まだ所々に農地が広がっています。かつては、ブドウや梨などの果樹園が多かったそうですが、新幹線や高速道路の建設で、徐々に縮小されてしまったそうです。それでも、散歩をすればブドウの実りに出会えます。ブドウの花は可愛らしいので、今年で会えると良いのですが・・・ブドウの花見がしたい!

 

 さて、愛知県は緊急事態宣言が出されてしまいましたので、今月は慈雲寺でおこなう「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」はお休みといたします。宣言が解除されしだい再開いたします。

 なお、個人でのお参りはいつでも歓迎いたします。本堂の扉が開いているときは、いつでもご自由にお入りになって、阿弥陀様や弘法大師とのご縁を深めてください。

 また、本堂では、いつでも写経や写仏を体験していただけます。必要な用具は全てそろっていますので、お気軽にどうぞ! 初めての方は、庫裏(本堂に向かって右手の建物)にお声がけ下さい。

 

★中日文化センター(鳴海会場)で4月から行っています「尼僧と学ぶ仏教入門講座」は、予定通り行います。また、7月からも継続して行うことが決まりましたので、ご興味のある方は、センターのフリーダイヤル0120-538-763でお問い合わせください。なお受講登録受付は6月1日からです。

子猫を葬る・・・・ペットの葬儀について

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東海道の鳴海宿に、江戸時代に設けられた常夜灯

 今日は楽しいこと、哀しいことが次々と起きたので、一日がとても短く、それでいながら深い日でした。友人が庭に咲いた花を持って来て下さったので、ご近所の花屋さんで追加の花を買って境内の仏花を活け替えすることができました。花のお供えはいつでも本当に嬉しい。自分で育てなお花ならなおさらです。

 しかし、最後にお地蔵様の前の花を替えようとしたら、生後2週間ぐらいの子猫が亡くなっているのを見つけてしまいました。最後の力を振り絞って地蔵菩薩の近くにたどり着いたような姿でした。

 朝から、時折境内に遊びに来る猫が鳴き声を上げながら歩き回っていたので、おそらく亡くなった子猫を探していたのでしょう。

 お地蔵さまが救い上げて下さったことを祈らずにはいられませんでした。

 

 ペットの葬儀については、私が慈雲寺に赴任してから数件頼まれたことがあります。ペットはどれほど「家族」であっても、六道の「畜生」としての命を生きています。

 仏の教えを聞き、信じることができるのは人間と天人だけです。ペットができるだけ早く人間界や天界に生まれ変われるように回向することはできますが、ペットと飼い主として極楽で出会えるわけではないと思います。このことを説明させていただいてから葬儀をさせていただいています。

 ただし、極楽へ往生した人が持つと言われる6つの神通力の中には、それまで輪廻してきたことの全てを思い出せるという力があります。ですから、いったんペットと飼い主として縁ができたら、そのことも思いだせるのです。深い縁があれば、必ずまた極楽で会えるでしょうが、犬や猫の姿をしてはいないと思います。でも、一緒に極楽で修行をする仲間として会えるのですから、より楽しいのでは?

 あの子猫ともいつか極楽で会えるかな?

 

 

 

法事か遠足か、悩みどころは?

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少々遅くなりましたが、有松絞りのこいのぼり

 毎月の法話のテーマに悩んだりしているときには、インターネットの投稿をまとめたサイトを覘いたりします。世の中の人がどんなことに関心があるのか知りたいのですが、まあ、無記名の投稿ですから、それがどれほど現実を反映しているのかわかりません。でも、時々、考えさせられる話題もあります。

 今日見かけたのは、「舅の七回忌の法要の日が、小学一年生の息子の初めての遠足の日と重なってしまう。どちらに出席させるべきか」という母親の相談です。母親は、どうやら遠足の方にだいぶ傾いている様子で、賛成意見を求めているようです。

 母親の言い分としては、子供にとっては会ったこともない舅の法事より、小学校で初めての遠足という思い出を台無しにしたくないとのことでした。

 母親の文章から最初に漂ってくるのは、彼女自身が法事に行きたくないのではという疑問です。小学校1年生の遠足ですから、午後それほど遅くならずに帰宅してくるでしょう。ということは、少なくとも母親だけは家で待っている必要がありそうです。

 遠足を楽しみにしている子供を説得するのは大変でしょうし、無理やり法事に連れて行って、子供にぐずられるのも面倒・・・というのが本音では?

 

 この投稿には、多くの人が応答していました。大半は、母親をバックアップする意見のようでした。全体に流れているのは「法事は面倒なだけで、何のメリットもないつまらないしきたりなのだから・・・」という同調でした。

 法事が面倒なだけで、無意味な慣習と思われているのなら、僧侶の力不足がまず責められるべきでしょう。普段から仏事の大切さ、意義について説いている僧侶が少ないということでしょう。

 

 私は法事に良い思い出しかないので、「法事は面倒なだけ」という発想を理解するのが容易ではありません。自分の親類縁者に会えるのはとても興味深いし、祖先の話を聞くのも楽しい。

 そして、人はやがて誰でもが死んでいくのだという、なんとも不思議な事実と向かい合う恐ろしさ、哀しさ、寂しさ・・・・一方で、人々の心の中に故人が生き続けていることの安堵感や不思議な幸福感。

 

 小さい子供でも、ぜひ葬式や法事を体験させてあげて下さい。命について考えるとても良いきっかけになるでしょう。善き僧侶に出会えたら、何よりの幸せのはずですが・・・私はまだまだなぁ

英語教えるなら、日本語の形容詞などの語彙を増やした方が良いと思うけどなぁ~

祖父に公園に連れていかれ相撲を見逃し不機嫌な1歳児 - YouTube

貴重!イヤイヤ期に突入した瞬間の映像🤣 - YouTube

キュン死!1歳が英語をかわいく間違える - YouTube

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大谷石の石切り場

 何も考えずにぼんやりしたいときはYouTubeを見ることがあります。最初のページを開くと、今まで閲覧したものを基にAIが選んだ(?)、おすすめの動画の一覧が出てきます。この選択がなかなか興味深い。私の閲覧歴のどこと関係しているのか???と思うものも多数。

 先週あたりから、上に示した動画を薦めてきます。「ゆうくん」という1歳児が祖父と遊んだり、話したりしている姿の動画です。このゆうくんが驚くほど言葉の発達が早く、どうやらテレビでもこの動画が紹介されたらしい。

 祖父母と同居しているらしく、家族がゆうくに対して、普通の大人に対する会話とほぼ同じように話しているのが見てとれます。「わんわん」ではなく、「犬」と言うとか、「うまうまでちゅね~」ではなく、「おいしいね」と言うとか・・・これが家族の方針なのか、自然にそうなったのか興味深いところです。

 ヨーロッパの言語学者の夫妻が、子供が生まれたばかりのころからホーマーの叙事詩を読み聞かせていたら、子供の言語能力の発達が非常に早くなったという話を聞いたことがあります。

 ゆうくんのもともとの能力にも恵まれているのでしょうが、大人四人に囲まれていることが、この子の言語能力の発達に大きく影響しているのは間違いないでしょう。

 いや~~それにしても可愛いなぁ、ゆうくん

 

 ところで気になるのは、母親がゆうくんに英語を教えようとしていることです。彼女の発音はなかなか上手なので、英文科の出身?それとも留学経験ありかな?

 でも、それ必要ですか?

 アップルとかポテトとか言えるより、日本語の形容詞を増やした方が良くないかなぁ・・・?日本語がしっかり身についてからでも、英語は学習できる。

 ここにも何度も書きましたが、母国語は文化、外国語は道具です。英語が使えることで、確かにいろいろと便利なことがありますが、自分の人間性を確立する、自分のバックグラウンドになる文化を確立してこそ、道具を使いこなす能力も伸びると思うのですが・・・・

 ゆうくんがこれからも、どんどん「自分で考える能力」を伸ばし、豊かな語彙を使った表現力で、コミュニケーションして欲しいと思っています。

勘違いしたまま続いてしまう

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大正天皇が愛した日光の田母沢御用邸のシャンデリア

 上の写真は、病弱だった大正天皇がしばしば滞在された日光の田母沢御用邸で撮った写真です。四月以来なんども「那須の旧御用邸」という説明を付けた写真をこのブログに掲載しましたが、それらはすべて、この田母沢御用邸の間違いでした。今朝になって気がついて、あわてて過去記事の訂正をしたところです。

 キャプションを付けるときに途中まで同じ言葉だと、入力しなくても「那須御用邸」と出て来るので、そのままポチっとしていました。勘違いに気づかないはずはないのに、見ていても「見えていない」状態が続いていたのですね。

 慣れていることでも、時々立ち止まって確認することが大切なようです。

 

 私の遠い親戚に大正天皇にお仕えした女官だった人がいます。たいした家柄の出身ではないので、まあ、女官といってもかなり下位の役割だったのでしょうが、退官してからの写真を見ても、聡明そうな美しい人です。

 その人の名が「まさこ」だったので、それにあやかるつもりなのか、母方の一族には漢字は違うものの「まさこ」が何人もいます。私の母も「昌子」。

 下位の女官が御用邸への旅に同行したのかはわかりませんが、この旧御用邸を訪ねた時は、母や叔母が「大伯母さまもこの桜を見たかしら」なんて言いながら笑っていました。彼女が眺めたときよりだいぶ大きくなっているでしょうが、見事な枝垂桜でした。

ご馳走連続到来は「阿弥陀様のお手配」か??!

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日光の旧御用邸の庭です。手入れの行き届いた苔が美しい

 私を師僧の随暢上人は、よく「阿弥陀さんが良いようにお手配してくれるから、その通りにしとったらいい」とおっしゃっていました。その度に、私は少し反発の気持ち。仏教の教えからすれば、運命論や恩寵論は排除されているのではないかと思っていたのです。キリスト教で言われる「神様の御心のままに」のような、「阿弥陀様のお手配」はないだろうと思っていたからです。

 しかし、昨日のブログで「少し鬱ぎみ」と書いたとたん、それを読んだわけでもないのに、つぎつぎとご馳走をいただきました。まずたけのこが大好きな私のために、仕事先の近くの竹やぶから取ってきたという破竹。さっそくゆでて筍ご飯を炊いていたら、ケンタッキーフライドチキンを届けていただきました。

 KFCのチキンは、年に数回ですが、「ああ食べたいなぁ」という思いが湧き上がってきます。今週から、その「湧き上がり期」がやってきていたところでした!

 さらに!お昼直前には、お寿司を届けて下さる方が・・・・

 

 「おいしいものをいただいて、元気を出しなさい」という阿弥陀様のお手配でしょうか?

 いただいたものをいかに美味しく、すべていただくにはどうしたら良いのか・・・まずは筍ご飯の三分の二を冷凍してと・・・・チキンは暖かいうちに二切れいただき、ナゲットは一時冷蔵。いや、一切れにして、お寿司を新鮮なうちにいただく・・・なんて忙しく頭を働かせていたら、鬱々とした気分を忘れていました。

 これは阿弥陀様は「知足」の教えを知れと諭しておいでなのか?いや、阿弥陀様は人を試したりはなさらないよなぁ・・・

 

 こんな風に皆さんに助けていただいて、今日もなんとか過ごしています。本当にありがとうこざいます。