慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

3月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は3月17日(日)10時より、お彼岸の法要も兼ねて行います。テーマは「法然上人が開いた『浄土門』とは何だったのか?その2」です。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

9月18日の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は「二河白道図」の絵解き説教にチャレンジします!

「二河白図」には様々なバージョンがあります

   尼僧と学ぶやさしい仏教講座  9月18日10時より

   テーマ:「二河白道図」の絵解き説教

 

 二河白道図」は、この世(此岸)から彼岸(極楽浄土)へ渡るガイドブックのような譬話を絵にしたものです。

 浄土系の寺院では、お彼岸やお十夜の法要の時に、この図を使って絵解き説教をする伝統があります。最近は絵解き説教をする僧侶も少なくなってきましたが、私はその伝統を大切にしたいと思っています。まだまだ未熟なレベルですが、チャレンジしてみようと思います。

 

 慈雲寺では。毎月身近な話題などから仏教的なものの見方、考え方などを皆さんとご一緒に学んでいます。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加くださいませ。

☆慈雲寺へのアクセスのご案内

 慈雲寺には十分な駐車スペースがありません。おそれいりますが、なるべく市バスをご利用ください。自動車でおいでの方は、有松インターを降りたところにある、有松ジャンボリーというショッピングモールの駐車場を利用して下さい。そこから慈雲寺へは徒歩7分ほどです。

 

 市バスはJRの南大高駅1番乗り場から「鳴海12 有松町口無池行」9時29分発があります。

 また、名鉄の有松駅からは2番乗り場から9時40分発の「有松11 有松町口無池行」があります。

 地下鉄の鳴子北駅の3番乗り場から9時26分発の有松口無池行も利用できます。

 

 いずれも「郷前」(ごうまえ)で下車してください。郷前の交差点の南東角に整骨院があります。その後ろに慈雲寺の屋根が見えます。整骨院の右手に狭い道がありますので、そこを上がってください。

中秋の名月を眺めながら写経はいかが?

 10日は中秋の名月です。朝晩はエアコンを停めて風を通すと心地良い日が増えてきました。

9月10日は中秋の名月。いよいよ秋の足音が近づいてきました。

 先ほど、お月見の必需品、ススキをご近所の池之端まで採りに行きました。

 

 慈雲寺では、毎月の満月の夜にお月見を兼ねた写経の会を行っています。

9月は10日が満月です。夜7時半より『般若心経』をご一緒に読み、毎月少しずつお経の内容についても学びます。

 必要な道具はすべて揃っています。写経は字の上手下手は関係がありません。ゆっくりと自分のペースで行って下さい。早めにいらして下さっても良いですし、7時半からの読経に間に合わなくても大丈夫です。

 

 お寺の縁先からはお月様がきれいに眺められますよ。

 どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

 

 慈雲寺の行事は、特別な場合を除いてすべて無料です。お寺の維持やご先祖のご供養などのために、お気持ちを御喜捨いただければ有り難く存じます。

 

遅くなってごめんなさい。今月の慈雲寺の予定です。

涼しくなると花替えの頻度も落ちて、貧乏寺には嬉しい。早く、こんな風に庭の花だけで御  供えしたいなぁ                                   

 本山で「センセ-」をしていたので、更新が遅れて済みません。慈雲寺の属する浄土宗西山派西山浄土宗)は、小さな宗派なので残念ながら人材も限定されています。なので、私のようなものでも時にはかり出されて後輩の「指導」を頼まれることがあるのです。受講者にとってはとんだ災難ですが、人に教えると自分の理解が足りないところがあからさまになるので、私にとってはとてもありがたい機会です。詳しくは次回、お話します。

 

 さて、遅くなりましたが、9月の慈雲寺の行事のお知らせです。

9月10日 夜7時半より   満月写経の会

     慈雲寺では毎月の満月の夜にお月見を兼ねた写経の会を行っています、道具も全て用意してありますので、どなたでもお気軽にご参加ください。

     7時半より、ご一緒に『般若心経』の読経を行い、毎月少しずつ内容についても学んでいきます。早めにいらして写経を始めていても結構ですし、時間に遅れても大丈夫です。

 

9月18日 10時より    尼僧と学ぶやさしい仏教講座

 今月のテーマ:『二河白道図』の絵解き説教

 『二河白道図』は此岸(この世)から彼岸(お浄土)へ渡るガイドブックのような譬話を絵にしたものです。この絵を使って、絵解き説教おこないます。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加下さい。

 

9月25日 10時より     彼岸法要

 慈雲寺に墓地のある方や、法話の会、仏教講座でご縁のある方など、どなたでもご参加下さい。

 「◎◎家先祖代々」もしくは、個別の戒名や俗名を書いたものをご持参いただければ、ご供養させていただきます。

  気軽な服装でおいでください。

 

☆慈雲寺の行事は、特別な場合を除いて全て無料ですが、仏さまへの御供えやお寺の維持のために、お気持ちを御喜捨いただければ有り難く存じます。

旅に行かれないから「極楽」見物 Part 1

    様々なバージョンの「當麻曼荼羅」が展示された特別展

 

 私は40年以上、旅行ライターとして糊口をしのいできました。伝統的な意味での「檀家」がゼロの慈雲寺の住職になった後も状況は同じです。

 仕事の多くは北米各地の取材でしたが、日本に戻ってからも社寺の取材などを中心にお仕事をいただいていました。

 しかし、コロナ禍が始まって以来、海外はもちろん国内の旅もままならない状態が続いています。

 先日、「なんだか心が『こってる』みたい。」と友人に話していたら、「このごろ旅に行ってないからね。」と笑われました。そうかもしれないなぁ・・・と感心していたら、別の友人から奈良博物館で行われていた當麻曼荼羅の展覧会の切符を贈っていただきました。

 旅に出られないなら、極楽見物に出かけましょう!と私は大張り切り。奈良は、京都まで新幹線で行き、奈良線に乗り換えるのが速いですが、私は名古屋から近鉄で出かけるのが好きです。

 近鉄の特急の速度は当然新幹線とは比べ物になりませんが、それだからこそ景色を楽しむことができます。緑濃い地域を通っていきますから、ゆっくり眺めているだけで心が癒されてくるでしょう。旅が大好きな私は「癒し」というより「わくわく」感が勝っていますが・・・・

 私は本当に旅が好き。旅に出ていないと心が血行障害を起こしてしまうのでしょう。特急に乗ったとたんに”血の巡り”が良くなっているのがわかりました。

 

 もちろん「旅」は遠出しなければできないわけではありません。自宅からでも、「角を曲がれば大冒険」と思っています。

 しかし!今年の名古屋周辺はいつもにも増して蒸し暑く、少し歩くだけで熱中症になりそうな感じ。散歩もままならない状態だったので、「ご近所旅行」もなかなか楽しめませんでした。

 冷房の効いた特急列車だからこそ、旅のわくわく感が高まったのでしょう。(つづく)

 

「教える」ことは「学ぶ」こと

三河湯谷温泉の朝です。名古屋から1時間ほどで行かれるのに、幽谷という感じ。

 

 このところ、毎日セッセと講義の準備をしています。講義のタイトルは「仏教要義」という恐ろしいもの。

 つまり、仏教の要点、キモのようなものを教えろというご指示です。受講して下さるのは僧侶を志して第一歩を踏み出したばかりの人たち。年齢も経験もバラバラですし、仏教に関する知識もまちまち。

 たいへん難しい課題です。

 

 私の役割は「基礎を叩き込む」なんてことではなく、仏教的なものの見方、考え方のポイントに興味を持ってもらうことです。

 「仏教って現実や社会、人間の本質をとても興味深い把握のしかたをするんだなぁ。おもしろそう!」と受講者が思ってくれれば大成功と思っています。

 

 一番あぶないのは、難解な仏教用語の説明で終わってしまい、結局仏教の面白さ、深さを伝えられないこと。

 予備知識が一切なくても解りやすいお話を心がけようと思っているのですが、これが実はとても難しい。自分がきちんと理解していないことを人に「わかりやすく」お話することなどできるわけがないからです。

 

 私は昔、アインシュタインアメリカの高校生向けに書いた相対性理論の本を読んだことがあります。相対性理論の解説本に一時は「サルでもわかる相対性理論」系の本をたくさん読んだのですが、結局このアインシュタインの本が一番わかりやすかった。

 よくわかっている人は、説明もできる・・・ということかもしれません。

 あ、もうすっかりその説明は忘れたので、私に聞かないでくださいね(笑)

 

 というわけで、講義の準備をすればするだけ、自分の理解が浅い(ま、浅いに決まっているのですが、特に浅い)所が見えてきて、ここ数か月バタバタしているわけです。

 

 しかし、人に「教える」ことは、自分が「学ぶ」ことでもあるなぁとつくづく思います。自分の理解の弱いところが浮き上がってくるので、それを補強しようと思えば思うだけ、私にとっての「学び」の機会になるというわけです。

 

 今回の講義では、授業中にいろいろ受講生に質問したり、あちらからの質問を受けたりしながら進めようと思っているので、私の理解の穴があからさまになってしまうリスクもあります。ドキドキするけど、楽しみでもある。

 

 何であっても、「教える」機会がいただけたら、まずは自分の「学び」にとって良い機会なのだと思っています。

旧統一教会の信者と私たちの間の「距離」は?

 

  慈雲寺の属する浄土宗西山派西山浄土宗)の総本山光明寺で見た朝焼けです。

 

 

 「庵主さんは、統一教会のことどう思ってるの?私なんか『宗教はこわいなぁ…』って思っちゃうけどね。」と、慈雲寺の法話の会に時々来て下さるご近所さんの質問です。同じような質問をこのごろしばしば受けるので、8月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」のテーマを「そもそもカルトって何?」ということにしました。

 そして先週の日曜日、なんだかとても蒸し暑い日だったのに、35人の方々が聞きに来て下さいました。ありがたいことですが、話終わってみると不十分なことだらけの話で、かえって皆さんの疑問や混乱を深めてしまったのではと反省しているところです。

 宗教学的には「カルト」の定義は定説になるものはまだ確立されていません。むしろ定義の確定は放棄してしまっているような気さえします。

 統一教会献金などの問題点については、宗教社会学者の櫻井義秀さんが↓の記事でわかりやすくまとめて下さっているので、ご覧下さい。

日本人女性は韓国人男性に仕えるべき…旧統一教会が日本人信者に「金と奉仕」を要求する驚くべき言い分 (msn.com)

 

 桜井先生のご指摘を見ると、統一教会の「集金システム」は、なかなかパワフルで「(ずる)賢い」もののように見えます。しかし、宗教史の面からみれば、ユニークなものではなく、過去から上手に学んでいるという印象です。

 例えば「40万円相当の献金をして天一国と呼ばれる天国への入籍証を持たないと天国には入れないと言われている。」

 と桜井先生は指摘しますが、500年前、カトリックの僧侶たちは信者に「免罪符」と呼ばれる天国への切符を売りつけていました。エホバの証人の教団でも、初期のころは「天国は定員があり、数多く教えを広めた人でないと天国へ行かれない」と教えていたりしました。そのほかの教団でも「天国行の予約券」の話は珍しいものではありません。

 100円のお守りより、1万円の「特別護符」の方が御利益がありそうな気がするのもよくあることです。

 

 私たちそれぞれが抱えている悩み、とりわけ罪悪感につながる思いは、多くの場合無防備で、少し嗅覚のある人ならすぐに見破られる可能性があります。

 私たちと統一教会の信者たちとの間の「距離」は、案外に近いのでは?「あんなものに私は絶対ひっかからない!」とあなたは言い切れますか?

 

 では、宗教は怖いと決めつけて拒否してしまうのが「安全」なのでしょうか?

 本来宗教は、自分だけでなく「生きとし生けるもの全てが幸せになる」道です。そして恐怖や罪悪感をあおるのではなく、穏やかな心で生きるためのものです。さらには「私たちは何のために生きるのか?」「生きるとは何か?」という根源的な疑問にチャレンジする道でもあります。

 

 では、統一教会やかつてのオーム真理教などに対応するためにはどうしたら良いのでしょう?↓に挙げた星さんのコメントが一つのヒントになると思います。

 

星 暁雄 (ITと人権) @AkioHoshi

>実は、統一協会の活動を封じるには"宗教"の概念を持ち出す必要はありません。統一協会は正体を隠して勧誘し、マインドコントロールしたうえ金銭、人生を搾取する。反社会的で人権を侵害する団体。法的に活動を封じる事は出来たはずだが、政府の無作為——というより擁護により生き延びてきた団体。さらに「信教の自由」という観点でも結論は出ている。「青春を返せ訴訟」では、正体を隠した勧誘は「信教の自由」を侵害する不法行為との判決が確定しています。統一協会の反社会的活動を封じる事は、今の司法判断の延長で可能です。誤解なきよう、短く「まとめ」を。

(1) 日本国憲法が定める「#信教の自由」を侵害しているのは旧統一協会の側との判決が確定。
(2) 宗教か否かに関係なく、反社会的で人権侵害を繰り返す団体には法的措置が可能。
(3) 旧統一協会は法的措置を回避するため自民党との関係を利用。

 

 とはいえ、今、慈雲寺は屋根の雨漏りに悩んでおり、畳もぶかぶか。修理の資金調達に悩んでいます。なんだか「美肌に効く弘法大師のお数珠」なんか売りたくなってしまうかも・・・・ううう

兵士の子供たちの体験も記録に Part2

慈雲寺で初めて咲いたスイレンです。売れ残りの株を買ってきたので、開花するか心配でしたが、しっかり花開いてくれました。極楽の蓮を連想して楽しくなります。

 

 第二次大戦に下級将校として参戦した父は、心に深い傷を抱えて生きていたと思われます。今ならPTSDと認定されたかもしれません。

 彼の心の「深淵」は、妻や子供たちにも少なからぬ影響を与えたはずです。私は父に心を開いてもらえなかったと悩み、父を理解することの難しさに悩みました。

 このように、兵士が戦場から抱えてくるものは、本人はもちろん、家族や次世代にまで大きな影響を与えていると思います。

 たとえ戦争という「大義名分」があったにせよ、私の親世代の多くが人を殺した経験を持っているのですから・・・・もし、まったく影響されず、平気な人がいたとしたら、それはそれで問題でしょう。

 

 その兵士の子供たちでわる私たちも老年となりました。私たちも「帰還兵」との生活体験を語り継いでいくべきだと思います。今記録に残しておかないと、戦争が長く長く影響を及ぼすことが見落とされてしまうことになるでしょう。

 

 団塊の世代の皆さん、どうぞ兵士だった父や集団疎開を経験した母親、入植地からの帰還など、さまざまな経験を家族でどう共有してきたのか、自分の親世代の心の中に残されている「戦争体験」の思い出をぜひ記録して下さい。

 

 戦争は世代を超えて、長く長く人々の暮らしと心をむしばむものです。今日本は再び「戦争のできる国」になりつつあるようです。

 仏教はどのような大義名分があろうと、殺生を厳しく戒めています。「人殺し」の業の深さ、恐ろしさも繰り返し説いています。