慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

3月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は3月17日(日)10時より、お彼岸の法要も兼ねて行います。テーマは「法然上人が開いた『浄土門』とは何だったのか?その2」です。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

終えようとする命によりそう

 昨夜、NHKの教育テレビで「臨床宗教師」をテーマにした番組を見ました。僧侶は葬儀やその後の法要など、亡くなった方の供養や残された人々の心によりそうために役立てるように心がけています。しかし、本当に仏の教えが必要なのは生きているうち、とりわけ、病気や年齢などによって死が近づいていると感じる時こそ、宗教とのかかわりが大きな意味を持っていると思われます。臨床宗教師とは僧侶や牧師などが特別の訓練を受け、末期癌の患者などのケアに携わる人のことです。番組の中では、若い僧侶が試行錯誤をしながら真摯に患者と向き合っている姿が印象的でした。

 私はカナダにいるときに病院でボランティアをしていたことがあります。そこでは色々な宗派の牧師さんや神父さんなどがやってきて、患者を見舞い、なぐさめ、励まし、ともに笑ったり、じっと患者の話に耳を傾けたりしていました。

 キリスト教の宗教者は病院に自然に溶け込めるのに、なぜ日本では仏教の僧侶が同じようにできないのでしょうか?病院で坊主頭の私の姿を見ると、あからさまに「縁起が悪い」ものを見たというような態度をする人もいるのに驚いたこともあります。日本の仏教が先祖供養や葬式など、「死んでしまった人々」のケアが中心と考えられているからでしょうか?しかし、日頃から檀信徒の方々と深い縁を結び、日常の「心の問題」に寄り添っている僧侶もたくさんいます。また、先祖供養にしても、先祖にとって一番の供養は、子孫が穏やかで平安な暮らしをおくることでしょう。仏様の教えに導かれた安心(あんじん)に満ちた生活こそ、先祖の方々に最も喜んでもらえることだと思います。

 「老い」や「死」は人間として避けることのできないもの。根源的な不安や恐れを感じるのは当然のことです。その哀しみによりそい、最後の日々をできるかぎり安らかなものになるよう、

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證空辞典

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少しでも役にたてる僧侶でありたい自らの信仰を顧みています。

・今日の写真はカナダ、ロレンシャン高原の晩秋の楓の葉です。