新聞をゆっくり読むのは私の日々の楽しみの一つ。広告のチラシもしっかり読みます。今日は、ご近所のお寺の永代供養納骨堂の広告が入っていました。きらびやかなフルカラーの両面チラシ。デザインは洗練されているとは言えないまでも、かなりコストがかかっていることが良くわかるものでした。
このお寺は、門前を通ったことがあるだけなので、今度ぜひお参りしてみたいと思っているところ。門前からだけでも、中の派手な感じが伝わってきます。規模が大きく、華やかな感じのする宗教施設はときどき見かけますね。名を知られた新宗教の本部や本山にはよくあることです。そういった「物」のパワーで仏や神のパワーを示そうというのかもしれません。たしかに奈良の大仏さまにも宇治の平等院にもパワーを感じるし、ご利益にもつながりそうな雰囲気が醸し出されていますね。
このご近所のお寺もなかなか「パワフル」ではあります。境内に新しく建てられたのは巨大な納骨堂です。永代供養を一回お願いすれば(料金を払えば)、「永代にわたって供養します」というのがポイント。個別に僧侶による読経を希望しない限り、お布施も管理費もいらないそうです。
これに申し込めば、お墓を守ってくれる人がいるかどうかとか、仏壇の継承とかを心配する必要がなく、とても安心・・・と、チラシには強調されていました。
でも、このチラシには、仏の教えらしきものは一切書かれていません。いったいなにが供養なのでしょうか?「供養」が意味を持つのは、供養する人、される人に、共通の思い、信仰があってこそではないのでしょうか?生きている間に信仰にめざめ、仏教徒として生きてこそお寺に納骨する意味があるのではと思えてなりません。
これからは、「~家の墓」ではなく、個別や夫婦での墓や合祀墓、納骨堂にお骨を納めたいという人は多くなるでしょう。生きている間に、お寺を中心にして信仰の仲間と集い、人生の最後のときを助け合いながら、一つの墓を守りあうような「合祀墓」があっても良いのではと思っています。
・今日はとても寒いので、暖かいところの写真を選んでみました。シルクロードの要所として栄えた、ウズベキスタンのブハラという町のモスクです。ブハラは玄奘三蔵法師が仏典を求めてインドへ旅した時にも立ち寄ったとされるオアシス都市ですが、今は仏教遺跡は何も残っていません。