慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

3月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は3月17日(日)10時より、お彼岸の法要も兼ねて行います。テーマは「法然上人が開いた『浄土門』とは何だったのか?その2」です。どなたでも歓迎いたしますので、お気軽にご参加ください。

慈雲寺のご本尊は廃仏毀釈の犠牲者? Part1

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 慈雲寺のご本尊はお立ち姿の阿弥陀如来です。江戸期の作と思われますが、全体が黒く変色し、あちこちに焼けたような跡が見えます。慈雲寺には大正時代に書かれた『慈雲寺縁起』という書物があります。この本には、残念ながら、ご本尊の由来についてほとんど情報がありません。

 慈雲寺は江戸時代尾張藩御典医だった相羽家の寄進で明治時代中期に建てられたものです。ご本尊は、大阪に住んでいた、相羽家の親類の家から招来してきたものだと書かれています。しかし、なぜその家にこの仏像があったかという記述は一切ありません。一般家庭の持仏として置かれていたものとしては大きすぎますから、どこかのお寺にあったことは間違いないでしょう。

 残念ながら、私は先代さまから、ご本尊の由来をうかがう機会がありませんでした。『慈雲寺縁起』以外には、慈雲寺の歴史に関して研究したような書物は今のところ見つかっていません。ですから、ここから先は全くの私の想像です。

 まず注目したいのは、この阿弥陀仏がどうやら「やけど」をしていることです。どこかのお寺に祀られていたときに、火災に巻き込まれたことがあるのでしょうか?そして、そのお寺は再建されることなく、仏様は相羽家の親戚に引き取られた・・・というのが一番シンプルなストーリーです。火災は単なる失火でしょうか?

 私は長い間、日本での「廃仏毀釈」に興味を持っています。ご存じのように、発足したばかりの明治政府は、まず神仏分離令を出します。天皇を中心とした国家神道を進めて行くために、日本独特の信仰のあり方だった神仏習合を排除し、神社と寺院の分離を命じたのです。

 政府の最初の意図は、単なる神仏の分離だったと言われていますが、その動きは各地で激しい廃仏運動を生んでいきます。多くの寺院や仏像が破壊され、僧侶が信仰を捨てました。この時に、多くの仏像が外国に売り払われたりもしたそうです。ひょっとしたら、慈雲寺のご本尊も廃仏毀釈の犠牲者だったのかも・・・と、想像が広がります。

◎今日の写真はカナダのケベック州で見た、菊の花飾りです。