昨日の新聞に、裁判員裁判で死刑となった死刑囚の死刑が執行されたというニュースが出ていました。そして今朝の新聞には、死刑判決の出た裁判に裁判員としてかかわった人の葛藤をルポした記事が出ていました。
仏教では生き物を殺すことを戒めています。とりわけ、仏法を聴き悟りを得る可能性のある人間を殺すことを厳しく禁じています。これは、戦争や裁判による死刑判決のような「大義」や「法律の定め」であっても同じです。
また、直接手を下して「殺す」だけではなく、「殺させる」ことも同じ重さで禁じています。今朝の新聞に出た元裁判員が「死刑が執行されたら、自分も人を殺したのと同じことになるのではないか。」と、精神的な不安と負担を吐露していたと書かれています。
この不安は当然のことで、「殺させる」立場に立ったことは否定できないでしょう。もちろん、この元裁判員は法にしたがって裁判員になったのですから、死刑判決が出る可能性のある裁判だからといって参加を拒否するのは難しかったでしょう。しかし、この方が長く自分のした行為を抱えて行かなければならないことになると思います。それほど重い行為を「素人」に負わせることが妥当とは思えません。
裁判員裁判では、遺族の処罰感情に押されたり、同じ裁判員の中の「声の大きな人」に押されたりと、必ずしも自分の確信に基づいて判断しにくいという面も否めないでしょう。
仏教徒として死刑を認めることはできないだけでなく、裁判の間違いや冤罪の可能性がゼロではない以上、死刑が合理的とは言えないでしょう。私は早期に死刑を廃止したカナダに長く住んでいましたが、死刑が廃止されても犯罪が増えたわけではなく、死刑制度を維持することが犯罪の抑止力になるという議論も否定されています。
また、被害者の家族も犯人が死刑になることで本当に心が癒されるのでしょうか?犯罪被害者の心のケアは「復讐」では解決しないのでは?では、宗教者として何ができるのかと自問もしなければなりません。
法然房源空上人(法然上人)の父親は権力争いから敵に殺されてしまいました。敵討ちを誓う勢至丸(法然上人の幼名)に、瀕死の父は「復讐は新たな恨みを生むだけだ。」と諌めたそうです。勢至丸は、これをきっかけに出家を決意したと言われています。
今朝の記事は僧侶として様々なことを考えさせられるものでした。
◎今日の写真はカナダ・モントリオールの旧市街で見た銅像です。なんだか楽しそうにおしゃべりしてますね。