今朝、のんびりと昔撮影したスライドの整理をしていたら、テレビの画面が突然ニュースに変わりました。北朝鮮で人工的な地震がおき、核爆発の可能性が高いとの報道でした。その後、北朝鮮のテレビ放送の発表で「水爆実験」だったとしりました。
本当に水爆の実験だったのか、どれほどの規模だったのかといったような報道は夜になってもはっきりはわかりません。「朝鮮戦争の再発か?」とか「新しい安保法案は朝鮮戦争に自衛隊が出ていけるようにするためのものだった」といったような、うがった見方がネット中で流れています。
中でも、最も哀しかったのは「やはり核を持つのは抑止力になる。北朝鮮が水爆を持つなら、日本も核武装しなければ対抗できない。」というものです。
拳銃でも核爆弾でも、武器を持つことが平和に通じるという議論には、仏教徒は全く同意できません。たとえ使われることがなくても、武器には「人を殺害する」という意志が必ず伴っているからです。
仏教徒はいかなる状況にあっても人を殺してはならないと戒められています。他の人が殺すことを容認するのもだめです。ましては、広島の原爆の少なくとも数十倍の威力のある水爆を認めるべきではありません。
しかし、なぜ北朝鮮が今、実験に踏み切ったのか、政治的、戦略的な意味があるのでしょう。詳しい分析が待たれます。
この状況の中で、日本が「戦争のできる国」に足を踏み出してしまったことを改めて心から残念に思います。
◎今日の写真は和歌山県の有田の街で見た古い掛け時計です。人類の時計もこんな風に停まってしまわないことを祈りたい気持ちです。