お釈迦さまの弟子にも女性はいましたし、日本で最初に出家したのも女性と言われています。尼僧として生きるのは、女性の生き方の選択肢の一つとして、もっと「普通のこと」ととらえてもらえるようになればと願っています。
尼僧として生きることは、本当の意味で自由を得ることができます。自分の信仰を生活の基盤とすることができますし、「〇〇才になったら結婚しなければ」とか「子供を産まない女性は一人前ではない」とか、「仕事ばかりの女性は・・・」といったような世間の「基準」(本当はそんなものは無く、幻想に過ぎないのですが・・)から外れても、言い訳する必要は全くなくなります。
貧乏も恥ずかしくはありませんし、清潔にしてさえいれば何年前の服を着ていても大丈夫。ま、作務衣か衣(ころも)をいつも着ていればさらに楽です。
尼僧寺院は、そのほとんどが規模が小さく、檀家さんの数も限られています。お寺の維持運営という面では難しこともありますが、ある意味では、時間には恵まれていると言って良いでしょう。ひと昔前まで尼僧は、お茶やお花を教えて生活の糧を得ていました。慈雲寺の先代様は裁縫を教えたり、仕立物をしていたそうです。私も、慈雲寺の弟子にしていただくとき、先代さまから「慈雲寺にはあなたに給料を払う余裕はない。自分の食い扶持は自分で稼げますか?」と聞かれました。それで、私はライターや通訳の仕事を続けることにしたのです。
これから尼僧を目指す人は、何か自分で仕事ができる人が理想的です。会社に勤めるのではなく、時間を自分でコントロール可能な仕事であることが条件ですが・・・知人の尼僧さんは歯科技工士さんで、お寺に自分の作業所を作って仕事をしています。理想的な状況と言えるでしょう。
幸い、住む場所は保証されますし、体が動く限り何歳になっても役割があるのも尼僧の良いところです。むしろ年を重ねるほど、宗教者として深みを増してこなければいけませんね。う~~ん・・・私はちょっと難しいかもしれませんが。
明日は「出家の手引き」のようなお話しをしましょう。
〇今日の写真は、京都の京極にある蛸薬師に祀られている蛸です。足の悪い人はこの蛸の足を、目の病の人は目など、それぞれ御利益をいただきたい部位をさするのと御利益があるとか。