日曜の朝、賽銭泥棒がまさに盗みをし終ったばかりのところに遭遇してしまいました。まさか泥棒とは思わないので、「おはようございます」と声をかけたら、とても不自然な感じで振り向いたのは痩せた中年の男性。右手にどうやらコインを握りしめているようです。
いつもはほとんどお賽銭のあがらない慈雲寺ですが、それでも週末にはお墓参りにいらっしゃる方がいるので一握りではつかみきれなかったようです・・・
あ、賽銭泥棒だ!と気が付いたのですが、そのまま気が付かないふりをしてしまいました。
本当にお金に困っている人なら、他の家で泥棒するより、慈雲寺のお賽銭を使ってくれてもいい・・・と、思っていたのです。もともと、慈雲寺では賽銭箱に鍵をつけたりはしていません。大きな鍵をつけるのはなんだか浅ましいような気がしたし、鍵を壊されたり賽銭箱自体を壊されたりするほうが嫌だと思ったからです。
しかし!昨日からずっと、この賽銭泥棒のことが気になります。自分のものでないものを盗むのは、いかなるものでも大きな罪です。たとえば他人の大切な時間を無駄に使わせしまうのも盗みの罪だと仏教では考えます。
ましてや賽銭箱の中のお金は仏様に捧げられたものですから、よけいに罪は深いといわなければならないでしょう。悪因を作ってしまえば、必ず悪果が現れます。
私が賽銭泥棒を止めなかったから、彼は仏様の供物を盗むという大きな罪を犯してしまったわけです。
私は勇気を出して、盗むのをやめるように説得すべきでした。彼がお金を必要としているのなら、掃除などを手伝ってもらってお礼を渡すようにすべきでしたね。そうすれば、彼は善因を作ることにもなったのです。
「盗みをやめろ」と言えば、居直られたら怖いと思ってしまった自分が少しなさけない。泥棒が私の姿を見て、ただちに反省しなかったというのも情けない。もう少し宗教的なカリスマがあればよかったのかなぁ?
う~ん・・・鍵を付けた方がいいかなぁ・・・・悩ましいところです。
◎今日の写真はカナダ東端の島、ニューファウンドランド島で見たクリスマスの飾り(オーナメント)です。描かれている白い塊は氷山ですね。