タイトルの俳句は、1940年代、日本が第二次大戦になだれ込もうとしているとき、それに抵抗して白文地が詠んだものです。
「駆け付け警護」を容認する閣議決定が行われたという記事を読んで、思い出した情景があります。先日、新幹線に乗っていたとき、ホームで私服の女性が綺麗な敬礼をして列車を見送っている姿が見えました。おそらく、列車のドアの内側には自衛官が立っていたのでしょう。あの敬礼から見ると、彼女も自衛官でしょう。
恋人を見送りにきたのかなぁ・・・いや、私服で恋人同士なら敬礼しないよね。しかも、彼女の姿が真剣すぎました。表情も硬くて、私が窓から見ているのに気が付いても照れくさそうにさえしませんでした。
まるで、戦争に出征する人を送るみたいでした・・・・もしかしたら、スーダンへ行く自衛隊員の見送りだったのかも・・・・。
「戦死」の可能性もこれからは否定できない今、彼女の真剣なまなざしが心に残りました。
仏教はいかなる理由があっても「殺生」を認めません。「正義」という御旗を振り回しても、そんなものには実体はないし、立場によって全く違う「正義」がいくつもあるからです。
あの女性が見送った人が、もしスーダンへ行くのなら、無事に帰国されることを祈らずにはいられません。「駆け付け」のタイミングよりも、「撤退」のタイミングを適切に判断できる指揮官のもとに属せると良いのですが・・・
◎今日の写真は。近江八幡のカフェの窓です。その日の取材を終えて、ホッとしたとき、まどの光がとても美しく見えました。