先日、ある浄土系の宗派の僧侶の方とお話ししていて、勤行の時間の長さのお話しになりました。その方のお寺では、毎日、1時間以上お念仏が続くので、勤行が二時間にわたることも珍しくないとか。
日本に「南無阿弥陀仏」のお念仏の教えを確立なさった法然房源空上人(法然上人)は、毎日6万回もお念仏をなさっていたそうですから、1時間以上もお念仏をするお寺があっても不思議ではないのかもしれません。
いったい、お念仏は何回すれば良いのでしょう?たくさん、すればするだけ功徳も大きくなるのでしょうか?この問題は、法然上人の直弟子の間でも問題になっていたようで、「念仏はできるだけ多く」とする多念義の人々と、「阿弥陀仏の救済にあずかるには一回の念仏で良い」とする一念義の人々との間で論争がありました。その論争は、ある意味では今も続いていると言って良いでしょう。
僧侶のお弟子の方々だけでなく、一般の信者の人々にとっても、これは大きな問題だったようです。あるとき、宮中の女官の一人が深刻な表情で法然上人に問いかけました。「お念仏を百万遍となえ、それを百回繰り返せば、極楽へ往生できると聞いたことがあります。しかし、その数だけお念仏ができないうちに命が終わってしまったら、どうなるのでしょうか?」・・・・不安に怯える女官の表情が想像できますね。
これに対して法然上人は「そのような考え方は僻事です。」とやさしくお答えになりました。お念仏を数で考えること自体が間違えだというのです。「100回でも、10回でも、1回でも往生できます。」と法然上人はおっしゃいました。
大切なのは、阿弥陀仏は、「生きとし生けるもの全てを一切の条件を付けずに救う」とお誓いになり、その為に必要な(本来なら私たちが自らしなければならない)修行と懺悔を全て成就して下さった仏だということです。
阿弥陀仏は法蔵菩薩だった時代に立てた誓願の全てを成就したので、阿弥陀仏になられたのです。阿弥陀仏がおられるということは、私たちの救われが成就したということなのです。
ですから、私たちは法蔵菩薩が阿弥陀仏になられた由縁を聞かせてもらい、「ああ、そうだったのか!」と阿弥陀仏のお慈悲を喜べば良いのです。法然上人の高弟、善慧房証空上人は、この阿弥陀仏の願い(本願)を聞かせてもらい、嬉しさのあまり口からこぼれ出るのがお念仏だと教えてくださっています。
つまり、お念仏のするから救われるというわけではないのです。私たちの救われは、もう阿弥陀仏の方で全て用意して下さっているのですから・・・それを喜ぶだけで良いのです。
ですから、お念仏は1回でも100回でも、百万回でも良いのです。いったん、阿弥陀仏の願い、お慈悲に気が付いたら、私たちが生きていること全てが、阿弥陀仏の願いの中にあるのですから、全てがお念仏になっていくのだといっても良いでしょう。
お念仏を喜ぶ、嬉しい暮らしです。
◎今日の写真は去年、大府市で見た盆梅です。慈雲寺の梅も咲き始めましたよ。