今朝の新聞に福田財務次官のセクハラ疑惑についての記事が大きく出ていました。セクハラ問題が起きるたびに、女性の能力をのびのびと生かせない社会は男性にとっても居心地の良い世界ではないのにと思わないではいられません。
セクハラは、女性蔑視と軽視から生まれるものです。女性を劣った、そして穢れたものとして低く扱うのは、なぜでしょうか?さまざまな理由があるでしょうが、その一つには「血」を「ケガレ」として避けようとする神道的な考え方があるように思います。
神道やそれに結びついた民俗的慣習では、「死」を最も忌むべきケガレと考えます。その死と直結する「血」も避けるべきケガレです。ですから、毎月、生理によって出血する女性は、その間、穢れたものとして避けられてきたのです。大量の出血を伴う出産も「ケガレ」として、集落から離れたところに産屋を作った歴史もあります。ケガレは伝染すると考えられていたので、集落から離されたのでしょう。ケガレは災いを招くと信じられてきました。
このケガレに対して、法然房源空上人(法然上人)は、画期的な意見を述べています。『百四十五箇条問答』という問答集は、一般の信者からの質問に法然上人が丁寧に答えている素晴らしい本です。法然上人の人となりや思想の基盤が鮮やかに見えてきますので、機会があったらぜひ読んでみてください。
この本の中で、ある人が「月のもの(生理)の期間中にお念仏を称えても良いか?」という質問をしています。また別の人は「子供を産んだばかりの時はお念仏をひかえるべきでしょうか?」とも聞いています。これらの質問は正に「ケガレ」の問題です。
身がケガレているとされる間は、お念仏はひかえるべきか?というのが質問です。これに対し、法然上人は、きっぱりと「ケガレている」なという考え方そのものを否定します。私たちは、この身このままで、阿弥陀仏の救いの中にあるからです
人を愛すること、恋することは素晴らしいことです。しかし、相手を性的な道具としてしか扱えない人に、心豊かな恋愛をすることはできないでしょう。
セクハラ問題は、被害者が声をあげやすい環境を整えることが大切です。それは、結果的には冤罪を減らす対策にもなると思うのですが・・・
◎今日の写真は、和歌山の海岸で見たヒトデです。