先日、あるお通夜に知人として参列しました。どの宗派の葬儀でも同じだと思うのですが、お通夜の時は、読経の後で僧侶が短い法話(説教)をします。知人を悼む気持ちがとりわけ強かったので、どのような御法話をいただけるのかと、期待しながら読経が終わるのを待っていました。
すると、読経を終えて参列者の方を向いた僧侶の口から出た最初の言葉は「はい」でした。まるで「はい、一丁上がり!」という感じの「はい」・・・・そして「通夜式」と本来夜を通して行われる通夜との違いについて、ごく簡単に述べ、また「はい」と言いながら退席なさいました。
「はい」というのが口癖なのでしょうが・・・・
あまりに軽い内容に、正直がっかりしました。
通夜は、亡くなった方の身近な人にとっては深い哀しみの時ですし、たとえ義理で参列したような人にとっても、人の命、「生老病死」という人間の現実を直視する大切な機会です。こんな時にこそ、僧侶は哀しみを少しでもやわらげ、命の大切さを気づいてもらうヒントとなる法話を心掛けるべきでしょう。
葬儀は布教の機会というのは間違いだと思いますが、「あのお坊さんに送ってもらって良かった」と思ってもらえるかどうかは、お経の長さではなく、僧侶の人柄、宗教者のしての姿勢にかかっていると思うのです。
短い法話でも、僧侶にとっては一大事と覚悟して、しっかり準備すべきでしょう。もちろん、これは自戒。僧侶としての日々の精進が大切ですね。
◎今日の写真はインドのタージマハールです。