慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

「僧侶はすべからく貧しくあるべし」??!!

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 今日、仏教関係の雑誌のページをパラパラとめくっていたら、ある禅宗の僧侶の書いたエッセイが目に入ってきました。その僧侶は、自分の尊敬する高僧から「僧侶はすべからく貧しくあるべし」と言われて感銘を受けたと綴っています。

 は???そのエッセイを読んでいて、何だかとても違和感を感じました。「貧しくあるべし」って、いったい誰に向かって言っておられたのでしょう?

 仏教界全体を眺めれば、寺院としての活動だけで、自分と家族を養い、寺院の維持管理を行い、弟子を育てる・・・といったことができる寺院は、どれほど多く見積もっても3割程度です。

 あとの7割の寺院は"兼業”です。寺院とは別に職業を持って、家族と自分を養っているのです。慈雲寺の代々の庵主さんたちも、お茶やお花、裁縫などを教えて暮らしていました。

 私も先代様に弟子にしていただくときに、「慈雲寺には、貴女に給料を出す経済的な余裕がありません。自分で自分の食い扶持を得ることができますか?」という質問をまず最初に聞かれたほどです。

 「貧しくあるべし」などとわざわざ言われなくても、つつましく暮らしている僧侶の方が絶対的に多いはずです。

 日本の仏教界は、親鸞の時代から「家族を持つ僧侶」というユニークな状況が生まれています。そして明治以降はどの宗派でも、僧侶が結婚し、家族を持つことが"普通”になってきました。

 僧侶は、できる限り「私のもの」という執着から離れることが求められています。しかし、「私の家族」という存在は最も強く執着心を呼び起こすものでしょう。僧侶自身が清貧に暮らそうとしても、俗人である家族にそれを求めるのは難しいでしょう。

 その点、一人暮らしの尼僧は清貧な暮らしをしやすいと言えそうです。

◎今日の写真は、琵琶湖から比叡の山並を眺めたところです。