今日、仏教関係の雑誌のページをパラパラとめくっていたら、ある禅宗の僧侶の書いたエッセイが目に入ってきました。その僧侶は、自分の尊敬する高僧から「僧侶はすべからく貧しくあるべし」と言われて感銘を受けたと綴っています。
は???そのエッセイを読んでいて、何だかとても違和感を感じました。「貧しくあるべし」って、いったい誰に向かって言っておられたのでしょう?
仏教界全体を眺めれば、寺院としての活動だけで、自分と家族を養い、寺院の維持管理を行い、弟子を育てる・・・といったことができる寺院は、どれほど多く見積もっても3割程度です。
あとの7割の寺院は"兼業”です。寺院とは別に職業を持って、家族と自分を養っているのです。慈雲寺の代々の庵主さんたちも、お茶やお花、裁縫などを教えて暮らしていました。
私も先代様に弟子にしていただくときに、「慈雲寺には、貴女に給料を出す経済的な余裕がありません。自分で自分の食い扶持を得ることができますか?」という質問をまず最初に聞かれたほどです。
「貧しくあるべし」などとわざわざ言われなくても、つつましく暮らしている僧侶の方が絶対的に多いはずです。
日本の仏教界は、親鸞の時代から「家族を持つ僧侶」というユニークな状況が生まれています。そして明治以降はどの宗派でも、僧侶が結婚し、家族を持つことが"普通”になってきました。
僧侶は、できる限り「私のもの」という執着から離れることが求められています。しかし、「私の家族」という存在は最も強く執着心を呼び起こすものでしょう。僧侶自身が清貧に暮らそうとしても、俗人である家族にそれを求めるのは難しいでしょう。
その点、一人暮らしの尼僧は清貧な暮らしをしやすいと言えそうです。
◎今日の写真は、琵琶湖から比叡の山並を眺めたところです。