9月30日でサービスが終了となったポケベル。それを悼む「ポケベル葬」が行われ、祭壇に手を合わせる人の写真が新聞に掲載されていました。
葬儀は近親者だけで、できるだけ簡単に・・・と思う人が多いとされている一方で、「ポケベル」に手を合わせ見送りたいという人もいる・・・もちろん、面白半分に手を合わせている人がほとんどでしょうが。しかし、ポケベルにまつわる数多くの思いでを偲んだ人もいるはずです。
葬儀は、一人の人間が生きた証を「思い出す」場です。たくさんのことを思い出す、思い出を心に残すことが、何よりの供養になるのです。
上の写真は、最近新聞の折り込み広告に入っていた、ある葬儀会館の宣伝チラシです。
キャッチコピーは「母のこと、これからも話せる人がこんなにいる。会葬で知ることができました。」というものです。
イラストには、家族だけでなく、ご近所の人たち、同窓会の仲間、仕事の元同僚など、個人のさまざまな人間関係が示されています。
この葬儀会館は、どうやら「小規模で安い葬儀」を前面に出すことに限界を感じているのかもしれません。
葬儀を「こんなにも愛されていたことを実感できる」場としてとらえなおして欲しいとアッピールしています。
葬儀会館の商売としての意図はわかりませんが、私も「故人を思い出してくれる人の多さを実感することは、残された人間にとって、とても深い慰めになる」という視点は賛成です。
このことは、葬儀社ではなく、宗教家がもっときちんとアッピールしていくべきものです。葬儀だけでなく、法事やお墓を維持することで、どれほど心が安らぎ、人生の豊かさにつながるかを僧侶が説いていくことが大切だと思います。
私も二年前に父を見送りましたが、父の部下たちが「職場での父」について語った手紙をいただいて、本当に嬉しくおもいました。直接、その方々から聞くことができたら、なお嬉しかったでしょう。通夜や葬儀がそういう場であって欲しいと思っています。
そうなるための僧侶の役割について、もっと深く考え、しっかり実践していきたいです。