慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

こんな時だからこそ、仏教を学んでみましょう。 part6 釈迦の出家の動機(その2)

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 昨年、京都東山の永観堂で見た新緑です。今は訪れる人も少ないでしょうが、昨年と変わらず美しい影を作っていることでしょう。

 さて、あまり出歩かないなった今だからこそ、仏教の基本にたちかえって学び直そうと本を開いています。まずはお釈迦様の御生涯から・・・と思い、少しずつ伝記のようなものを読んでいます。

 お釈迦様が物質的には何一つ不自由ない生活を送りながらも、出家を決意されたのはなぜでしょうか?それは、生きることの本質的な「苦」に気が付いてしまったからです。お釈迦様の父親、浄飯王は、息子に世界の、命の本質を見せないようにずいぶん苦労したそうで、枯れた花さえも釈迦の目に触れないようにしていたのだそうです。

 今の私たちも、「死」を身近で体験することはとても少ないのではないでしょうか?父王が釈迦の目を塞ごうとしたように、私たちも人間の命の真実から目をそらされているのです。

 以前なら、二世代、三世代が同居しているような家では、家族の「臨終」に立ち会う経験は今より遥かに多かったでしょう。通夜や葬儀には遠い親戚も、ご近所の人々も、友人、同僚などもたくさん参列しましたから、子どもたちも成長の過程で、人の死に直面する経験を今とはくらべものにならないほど重ねていたことでしょう。

 今、人の死は、テレビやパソコンの画面の向こうのことで、いくら見てもリアルな「体験」にはなかなかなりません。そうした経験が少なく、命のありよう、真実の姿に目を背けていると、今回の新型コロナのように、急激に社会に変化が起きると、死の恐怖に圧倒されてしまいかねません。

 仏教は、こういうときに、落ち着いて状況を把握し、不安に心が必要以上に揺さぶられないための教えです。「死」を、「生きる」ことをきちんと見つめる勇気を養う教えです。

 下にご紹介するのは、昨日のネットのニュースの記事です。大学の学長という立場の人たちがどのような発言をしているか、とても興味深いので、ご紹介します。だたし、ここに引用されているのは発言の一部。恣意的に切り取られているかもしれないので、そのまま受け止めてしまうのは・・・難しいところです。

 

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