慈雲寺は伝統的な意味での檀家のいないお寺ですので、お葬式をたのまれることはめったにありません。しかし、ここ数年、不思議なご縁で葬儀を行わせていただくことが増えてきました。そのたびに、「中陰」の意味や意義についてできるだけ丁寧にお話させていただくように心がけています。
そうすると、「では、中陰の間、七日ごとにお寺にお参りに来ても良いですか?」と言って下さる方もあって、毎週、短い法要と少しお話をさせていただいています。この習慣が広がっていくと良いと思っているところです。
さて、Part4のテーマは、ももはなさんからご質問のあった「死産をした子供は往生するのか?」という問題を考えてみましょう。
Part3でお話したように、慈雲寺が属する浄土宗西山派(西山浄土宗)では、「阿弥陀仏がなぜ阿弥陀仏になられたのか」という所以を聞かせてもらい、「ああ、そうだったのか。私は阿弥陀仏に願われている身の上なのか」と領解(りょうげ)することが、重要なポイントになると考えています。
ですから、阿弥陀仏のお慈悲や願いを聴くチャンスのなかった水子や死産した子供は、今生での成仏はかなわないことになると思います。
しかし、だからこそ、丁寧に供養し、残された遺族が全力で廻向することをお勧めしたいと思います。次に生を受けたときに、阿弥陀仏のお慈悲を聴けるチャンスを得ることを願ってあげて欲しいと思うのです。そのことは、遺族が子どもを亡くした哀しみに向き合い、受け入れていく助けにもなると思います。
少し似たような議論はキリスト教にもあります。カトリックでは子供が生まれるとすぐに洗礼を受けます。しかし、プロテスタントの多くの宗派では、教えを理解し、自分の意志でキリスト教徒になることを選ぶことが出来るようになるまで、洗礼をすべきではないとしています。
キリスト教では、チャンスは一回だけ。生きている間に洗礼を受け、キリスト教徒にならなければ、天国への道は閉ざされてしまいます。それだけに布教に熱心になるもの当然でしょう。
仏教ももちろん布教を重要視しますが、今生でチャンスを逃しても、輪廻していけば、またチャンスはめぐってくる。すべての衆生はやがて極楽に行くのです。とはいえ、何度も苦しみの輪廻を繰り返すより、今生で阿弥陀仏のお慈悲を聴かせてもらい、すぐに極楽に往生するのがベストなのは言うまでもありません。
◎今日の写真は、カナダのノースウエスト準州でみたオーロラです。亜北極圏に住む先住民のいくつかの部族は、オーロラの彼方に一種の浄土があって、先祖たちはそこで楽しく遊んでいるという伝説を持っています。