中日新聞に私のエッセイが掲載されてから2カ月たちます。今も時々、「新聞を読みました」と言って下さる方がいて、恥ずかしいやら嬉しいやら・・・・ライターの喜びは、読者の心にほんの一言でも残る文章が書けたら・・・ということに尽きるからです。
お手紙やお葉書も何通かいただきました。すぐにお礼のお返事を出すべきところですが、なかなか思うように進みません。このブログをご覧の方がいらっしゃいましたら、少しずつお返事を書かせていただいていますので、どうぞ失礼をお許しくださいませ。
さて、そのお手紙の中で、一人だけとても気になる方がいます。文面から何とも言えない興奮が伝わってくるのです。熱意というべきかもしれません。私の文章のどこに、このエネルギーを引き出す要素があったのかと、少し不思議になりました。
宗教は、しばしば「熱狂的」な状態で信仰と出会うような仕組みになっていることがあります。奇跡に出会う、熱狂的な祈りで病気が治る、巨大な宗教施設に圧倒されるなどなど、さまざまな「仕組み」があります。カリスマ性の高い教祖が、大勢の人を集団ヒステリーのような状況を作り出し、集団で宗教的な法悦に浸る・・・などということもあるでしょう。
しかし、仏教の基本は「一人で考える」です。お釈迦様は「法(真理)は示されている。あとは法を拠り所としてサイの角のように一人で進め」とおっしゃっています。
熱狂的な信仰は確かに心地良いこともあるでしょう。しかし、一人でゆっくり考えてみるのがおすすめです。キーワードは「ゆっくり」です。
アメリカのテレビなどで布教するキリスト教系の新興宗教の教祖たちは、まるで機関銃のように、そして燃えるような熱意で布教をします。しかし、お経の中のお釈迦様は、いつでゆっくりと話し、弟子たちに自分で考えるように励まします。
言葉を発するときは、その言葉が自分と他人に及ぼす影響をしっかり考えながら話せとお釈迦様は教えています。そのように考えながら話せば、当然、話はゆっくりになって行くでしょう。
手紙も同じです。熱い思い、はやる心を文章にぶつけ、自分の思いを吐露するだけでは、汚い表現ですが「感情の嘔吐」になりかねません。
下書きを書いて、読み返し、一日ぐらいたってから清書するというのはどうでしょう?それでは「自分の思い」が伝わらないと思いますか?
思いを伝えるときは、その影響を考えながら・・・とお釈迦様は教えて下さっています。
◎今日の写真は、慈雲寺の近くを流れる愛知用水です。この写真の場所はサイホンの原理を使って、水をさまざまな困難な条件を克服して運んで行くための設備の一つです。