慈雲寺新米庵主のおろおろ日記

4月の「尼僧と学ぶやさしい仏教講座」は、4月21日(日)10時より行います。テーマは「法然上人がひらいた『浄土門』とは何か。Part 3 」です。法然上人の弟子、弁長、親鸞、証空が、師の教えをどのように受け止めていたのかをご一緒に学びましょう。どなたでも歓迎いたします。お気軽にご参加ください。

「成仏」とは何でしょう? Part2

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  前回のブログでは、仏教が悟りを開いて「仏になる」ことを目指す宗教であることをお話しました。自力の修行者は、今生で可能な限り修行に努めますが、もし悟りを開くことができなければ、六道に輪廻して、再び人間か天人に生まれてくる機会を待つことになります。

 自力で成仏することは不可能ではないはずです。お釈迦さまは悟りに至る道を数多く示して下さいました。しかし、残念ながら私たちは今、末法という全てのことが非常に劣った状況の中にあると仏教は考えます。もちろん、例外的に優れた人もいるでしょうが、ほとんどの私たちは「凡夫」です。

 その凡夫が救われていく道はないのでしょうか?阿弥陀仏仏国土である極楽へ迎え取れることによって救われていくという浄土教では、「成仏」をどう考えているのでしょうか?

 

 末法に生きる凡夫のために阿弥陀仏によって用意されたのが、「極楽」です。極楽は、キリスト教で教える天国とは全く違います。極楽は、「ごく楽に修行のできる場」。そこに迎え取られた人々は、現世での能力、性格などにかかわらず、仏の教えを聞き、正しく理解し、正しく修行をする能力が備わります。

 阿弥陀仏法蔵菩薩という名の修行者であったとき、そのような「世界」、「仏国土」を私たちのために用意する、という誓いを立て、その誓いが成就されるよう、必要な修行と懺悔を私たちに代わって成し遂げ、阿弥陀仏になられています。

 極楽に迎え取られるだけでは、正確には「成仏」とは言えないでしょうが、理想の修行の場で修行を続ける者=菩薩は、必ず仏になることが決まっているのです。

◎菩薩は此岸(現世)に戻ってくるのか?

 前回と今回のブログのきっかけを作って下さったももはなさんの質問は、浄土へ行ったきりになってしまうのではなく、亡くなった方も、この世で私たちと楽しく暮らすことはできないのか?という問いかけだったと思います。

 結論から言うと、浄土教の教えでは、答えはシンプルに「できます」。

 極楽での修行のうちで最も重要なのは「慈悲」と「利他」です。自分が完全な悟りの世界に入る、成仏してしまうのを一時先送りにしてでも、他の衆生を極楽へ導く手助けをすることが菩薩の修行・役割です。観音菩薩勢至菩薩も、その他のたくさんの菩薩たちが、自分の成仏を遅らせてでも、私たちを助けるために、この世にいらしているのです。

 

 極楽に迎え取られた人は、六つの神通力を得ることができます。法蔵菩薩誓願の中

に含まれているのです。その一つが「神足智通の願」(第九願)。阿弥陀仏に出会った人は、「神足」を得て、どのような場所にでも行きたいところへ行けるという能力です。

 もちろん、現世の私たちのところへ来ることも思いのままです。お盆の時しか帰ってこられないわけではありません。私たちが亡くなった方を思うとき、必ず向こうからも寄り添ってくれるのです。

 でも、その寄り添い方は、なかなか私たちの思い通りにはいかないかもしれませんね。夢に出てきて欲しいとか、声が聴きたいとか・・・。その「思い通り」という願いからいったん離れてみると、願っているのとは違うかもしれませんが、思いのほか近くに、その人を感じることができるのではないでしょうか?

 極楽に行った人は、「天耳智通の願」(第七願)によって、どこにいても仏の声を聞き、その教えを理解することができるのです。仏の声だけではなく、私たちの声も必ず届いています。

 

◎今日の写真は、この夏に淡路島で出会った睡蓮です。